葦書房

葦の葉ブログ


2018/4/4

またもやデザインを変えてしまいました。前々回のデザインを少し変えたものですが、いろいろ試行錯誤した末に、「葦の葉ブログ一覧」と同じデザインに戻りました。デザインが確定し、もう変更はしないという段階に至りましたら、コロコロ変わるデザイン変遷記をまとめてみたいと思います。



2018/4/4
自衛隊の日報問題と前川騒動再び
久本福子

 南スーダンPKO派遣に関する日報問題に続き、イラク派遣日報でも、ないとされていたものが実はあったことが発覚、防衛省の文書管理の杜撰さが再びクローズアップされ、厳しい批判に晒されています。省内各所でバラバラに文書管理をしていたとのことで、管理の仕方そのものに問題のあったことは事実のようですが、南スーダン日報問題発覚以降は、統幕で一括管理されることになったという。にもかかわらず、新たに文書管理の不備が露呈したというわけです。

 確かに、防衛省の文書管理に問題のあったことは事実であり、その点での批判は免れませんが、連続で発覚した文書管理の杜撰さがいずれも自衛隊の海外派遣に関するものであったことに改めて注目すべきだろうと思います。野党(辻本清美氏)が日報請求をしたのも、海外派遣であるがゆえであったはずです。つまり、日報がなぜ問題になるのかといえば、南スーダン日報問題で天下に知らしめたように、憲法9条下での、自衛隊の憲法違反行動をあぶり出すことを狙ったものであることは明白です。

 戦闘状態にある海外では、たとえ国連による平和維持活動(PKO)であっても、自衛隊は活動することはできません。南スーダン日報問題で、稲田前防衛大臣が「戦闘」を「衝突」と言いかえて野党の批判をかわそうとした、滑稽ともいえるやり取りが思い出されますが、現場で活動する自衛隊の立場で考えてみる必要もあるのではないか。

 自衛隊は実際のPKO活動以外でも、多国籍軍と共同訓練をすることもありますが、訓練を重ねてきても、実際に活動する現場では、戦闘状態になれば日本の自衛隊だけがその場から撤退せざるをえない。また戦闘状態に至らずとも、民間人が武装勢力に襲撃されている現場に遭遇しても、自衛隊自らが襲撃の対象にならない限り、自衛隊はその民間人救出のために武器をもって武装勢力に対抗することはできません。こうした現場に身を置く自衛隊が、憲法9条に抵触しそうな状況下でも活動を続けることは十分にありうるはずですし、むしろそれは人情としても自然だろうと思われます。

 同様のことが北朝鮮に関しては、逆の形で頻発しています。北朝鮮のミサイルは必ず日本の上空めがけて発射されますが、自衛隊は地対空ミサイルを配備はするものの、一度も北のミサイルを迎撃したことはありません。わたしは、アメリカ産の地対空ミサイルPAC3は百発百中ではなく、精度があまりよくないらしいので、アメリカから発射が禁止されているものとばかり思っていましたが、何と、日本の領土内に打ち込まれることが確実でなければ、北のミサイルも撃ち落とすことができないからだということを知り、仰天しています。憲法9条を護持する日本の大国是によるものです。

 わたしは長らく、北のミサイルが頻繁に日本の上空めがけて打ち上げられるのに、なぜ自衛隊は迎撃しないのか不思議でなりませんでしたが、憲法9条によって禁止されていたとは、今も信じられません。わりと各種情報を収集しているわたしですら、この事実を知ったのは最近のことですので、大半の日本国民はこの事実を知らないのではないか。日本のマスコミがこの事実を報道しないからです。

 北のミサイル発射が日本の脅威になっていることは、国内外否定する人は皆無のはずですが、であるならば、北のミサイル発射実験の初期の頃から、自衛隊が迎撃ミサイルで撃ち落としていたならば、北はミサイル発射実験そのものが不可能になっていたはずです。それでも北が実験を諦めないとなれば、想定としてもありえないものの、日本上空に代わって韓国上空を飛ばす以外にないわけですが、そうなれば韓国軍と在韓米軍は北のミサイルを即座に打ち落としていたであろうことは明々白々です。いずれにせよ、日本が迎撃していたならば、北のミサイル実験を断念に追い込むことができたであろうことは誰も否定はできないはずです。

 つまり北朝鮮がミサイル発射実験を続け、その精度を上げてきたのは、日本の憲法9条に護られていたからだと言っても過言ではありません。自衛隊の日報問題は単に文書管理の問題として論ずべきではなく、憲法9条が本当に日本の安全を守る守護神であるのかどうかを、与野党はもとより、全国民が真剣に考えるべき大課題として論ずべきだだと思います。この憲法9条の非常に強い縛りは、野党、マスコミの大批判を浴び続けた安保法制によってもいささかも変化はありません。また安倍政権が進めようとしている、憲法9条への自衛隊明記によっても、ほとんど変化はないはずです。

 もう一題。佐川氏喚問日の直前に、文科省の前川前事務次官をめぐる騒動がまたもや勃発しました。前川氏が名古屋市立中学校で講演したことをめぐる騒動ですが、文科省が名古屋市教委に対して、講演の内容を調査したとのことで、教育の独立を脅かすものだとの厳しい批判があちこちから上がっています。わたしはこの騒動が報道されるまでは、前川氏を講師に招く組織、団体、個人があろうとは想像もしていませんでした。ましてや総合学習の講師に招くと中学校があろうとは!しかし現実にあったわけです。まずこの事実に驚愕しますが、4月3日には、河村名古屋市長が、国による思想統制だと文科省の対応を厳しく批判しています。河村市長は、この問題は国会でも取り上げるべきだとも言ってますので、騒動はさらに広がりそうですが、市長をはじめ、批判する人々は問題の核心からずれた批判ばかりをしていますね。

 前川氏を講師に呼ぶことがなぜ問題なのか。日本の文部行政に携わる官庁のトップであった前川氏が文部官僚の天下り斡旋をしたこと。それに尽きます。河村氏をはじめ、問題視した文科省を批判する人々は天下りぐらい何だ、大した罪ではないとでも考えているようですが、官僚(公務員)が自らの地位を利用して、官僚の個人的利権を得ることを許していいのですか。これは犯罪ですよ。しかも文部官僚の天下り先は、日本の教育そのものに影響を与えることになる、大学などの教育関連に集中しています。すでに40数人が天下っていますが、文部官僚に学術的に優秀な能力を有する人材がいたとの話は未だかつて聞いたことはありませんし、それを証する業績なども寡聞にして知りません。つまり彼らは、大学などに対して、実質的には政治家以上に絶大な権限を持つ、文部官僚という地位の特権を悪用して天下っているわけです。

 官僚の倫理崩壊は、選挙で審判を受ける政治家よりも、はるかに深刻に日本社会に悪影響を及ぼことはいうまでもありません。天下りが許されるならば、彼らは天下りに有利な行政手法を次々と案出し続けます。こんな官僚が大学などにはびこったならば、日本の教育の質の悪化をもたらす一方です。事実日本の教育の質は低下の一途を辿っています。こんな官僚の利得斡旋をしていた人物を、中学校の授業講師として招き講演させるということは、中学生やその保護者たちに、前川氏のように不正に利得を得ることは何ら問題ではなく、犯罪でも何でも気にせず、皆さんもドンドンやっていいのですよと、暗に奨励しているのも同然ではありませんか。

 文科省は前川氏が何を話したのかを調査したらしいですが、講演の内容以前に、日本の文部行政そのものを食い物にしてきた文部官僚のトップであった前川氏を、中学校の講師として呼ぶことそのものが反教育的であり、反国民的だということです。こんな単純な道理も分からぬ人物が、中学校の校長や教員や市教委の委員や市長をしていていいのかとの、根本的な疑問すら感じます。

 当該中学校の校長も市教委も河村市長も、教育の独立を御旗に、犯罪を犯した前川氏に免罪符を与えるような機会を与えることが許されるとでも思っているのでしょうか。であるならば、彼らは全員、現在の職を辞するべきです。講師として招いたばかりか、まっとうな判断のできない当事者に代わって、文科省が事態解明に動いたとしてもやむをえないはず。これがなぜ思想統制、教育への圧力になるのか、全く理解不能です。



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