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渡辺京二特集 06/5/2

なぜいま人類史か 

1986年刊/A5版/236頁/1800円+税

渡辺京二さんの著書といえば、『逝きし世の面影』ばかりが異様なほど話題になりますが、正直なところわたしは、同書は渡辺さんの数ある著書、著作の中では、非常に異質であるとの印象を拭えずにいます。同書を刊行した版元の代表であるという立場からするならば、同書に対して批判めいたことは、かりそめにも口にすべきではないとは思いますが、『逝きし世』一冊だけでは、渡辺氏がなぜ同書を世に出すに至ったのか、読者にはほとんど伝わらないと思われます。

同書では外国人の目に映った、かつての美しい日本の姿が執拗に再現されています。しかし著者のその執念のいわれについては、同書においてはほとんど語られることはなく、外国人の書き残した文章や絵の紹介、引用だけでこの大著ができあがっているといっては過言ではありません。渡辺氏の著書の中では、非常に異質だと思わざるをえない最大の理由です。資料の選択も批評の一つの表現であるのは事実だとしても、一般的にいっても、資料の引用、紹介だけで一冊の本が書かれるなどということは、きわめて珍しい稀な形態です。

もちろん著者が意図的に選択した方法であったと思われますが、なぜ外国人の目だけという偏頗きわまりないな光源を通してまでも、「逝きし世の面影」をかくも美しく、しかも執拗に拡大再現しなければならなかったのか。渡辺氏の他の著書を読んだことのない読者は、著者は単純に過去の礼讃をしたかったのかと思うはず。同書だけからは、それ以外の感想は出てきそうもないからです。もちろん渡辺氏は、そんな単純な動機だけで同書を出したのではありません。刊行後間もなく、同書には書かかずに抑圧していた思いの一端を「週刊エコノミスト」に書かれていますが(当社刊『渡辺京二評論集成。 荒野に立つ虹』に「逝きし世と現代」と題して収録)、なぜ本体に書かずに、分離しなければならなかったのかと残念に思わずにはいられません。

本来ならば、『逝きし世』に書かれるべきであった同書刊行の動因については、実は86年に刊行された『なぜいま人類史か』に、余すところなく語り尽くされています。本書が刊行された当時、わたしはそのタイトルの余りの壮大さに思わずひるみ、すぐには読む気がしなかったほどでした。しかし読んでみると、このタイトルは確かに壮大ではありますが、単なる通史としての人類史を語ったものではないことが、即座に了解されます。人がこの世に誕生し存在しつづけることの必然性とその意味をとことん掘り下げ、考察したものです。人類の誕生と近代とが、一個の個体の中で断絶せずに一つながりのもとして掴みとられ、析出され、我々の前に差し出されています。

本書は著者初の講演集で、1980年の9月からほぼ2年の間に葦書房が開催した公開講議と、1986年に開かれた熊本の真宗寺での「人類史講議」をもとに一冊にまとめたものですが、出版に際しては、ほとんど書き下ろしに近いところまで手を加えられたそうです。講演集の体裁をとっていながら、論旨が明確かつ堅固に首尾一貫しているのもそのためです(06/6/15)。語られている内容は非常に深遠かつ哲学的なもので、一個の個体の生存の切実さにおいて、人類史とのつながりを考察しようとする欲求に貫かれています。にもかかわらず、読者を選ばぬ平易さでも一貫しています。講演をもとにまとめられたものだという事情もあるとは思いますが、著者の切実さに発している個体の生存の切実さとは、同時に読者自身の生存の切実さへとつながるものだからだろうと思います。

実は、本書の一章にも『逝きし世の面影』の世界も取り上げられています。しかしその赴きは大分異なっています。本書は上に述べたような、渡辺氏の鋭くも深い洞察に富んだ批評そのものが、作品世界をなしているからです。

ここまで書くのに、いつもと違い随分時間がかかりました。この文章がもし渡辺氏の目に入った場合のことを心配したからです。はっきりいえば渡辺氏を怒らせるのではないかとの心配が、手枷足枷、頭枷になったからです。だいたいわたしは、何の心配も制限もなく書く時はすいすいいくらでも書けるのですが、気掛かりが発生するととたんに速度が落ちてしまいます。しかし一読以来、違和感を抱かずにはおれなかった『逝きし世の面影』に対する素朴な感想を表明せずには、渡辺氏の著書の紹介などはできません。そこで今回は遠慮しながらも、思いきって違和感の一端を書かせていただきました。

なお本書のカバーは、刊行時そのままのものではなく、後にカバーだけ模様変えをしたものです。

以下、本書につづき、渡辺氏の渡辺氏たるゆえんを遠慮会釈なく発揮された、著書の数々をご紹介いたします。(06/5/2 久本福子)

 

ことばの射程 

1983年5月刊/四六版/200頁/1500円+税

毎日新聞に1978年から1982年にかけて連載されたエッセイを一冊にまとめたものですが、20数年も前に書かれたものだとの時間的な隔たりはほとんどゼロ。今という時代に、直接向って書かれたものだとの印象すら抱かずにはおれません。上記オビ裏の本文からの抜粋は、本書に限らず、いつまでも古びず、時代の拘束性を超越しているかに見える渡辺氏の著作の謎について、著者自らが語ったものです。装丁は働正氏。(06/5/2 久本福子)

 

地方という鏡

1980年11月刊/四六版/271頁/1800円+税(在庫僅少)

西日本新聞に1976年4月から1980年まで連載された同人誌月評に、70枚余りの「地方という鏡」と題する書き下ろし評論を加えて一冊にまとめたものですが、本書のタイトルにもなった評論「地方という鏡」はもう圧倒的です。「地方」を解析してこれほど深く、鋭い批評は空前絶後です。しかも、この論考が書かれたのが、今から25年以上も前のことだということが信じられないほどです。本書で解析されている「地方」とは、そっくりそのまま、今現在の地方そのものでもあるからです。

本書に限らず、渡辺さんの本を読むと、時代は激しく動き、激しく変化しているように見えて、その実ほとんど動いていないのではないかとの疑念すら感じさせられます。非常に不思議なことだと思われますが、その謎は、渡辺氏が「地方」なら「地方」という対象を通して、絶えず人類史的視点から近代を読み解こうとしているからだと思われます。ですから、日本の「地方」から世界までもが見えてきます。

なお、本書にはわたしが旧姓の明石福子で「暗河」に発表した評論2編もとりあげられています。渡辺さんは当時葦書房が発行元になっていた季刊雑誌「暗河」の編集責任者でもありましたが、旧姓を使っていましたので、明石が三多の女房とは知らずに同誌に掲載され、同人誌評でも取り上げてくださいました。いずれも大変なほめ言葉をいただきました。装丁は働正氏。(06/5/2 久本福子)

 

日本コミューン主義の系譜

1980年5月刊/四六版/269頁/1800円+税

本書は、『渡辺京二評論集成氈@日本近代の逆説』と内容的に重なる論考が含まれていますので、目次を掲載しました。本書は、単純なコミューン論、共同体論ではありません。近代との相克のなかで浮上せざるをえなかった、日本的心性、東洋的心性としてのコミューンへの幻視であり、切ないほどの希求です。

なお、本書は外装の痛みやシミなどがあります。最近のお客様の中には、本の外装を異様なほどチャックして、少しの汚れも許さず、即座に返品される方も珍しくはありません。本当に本が読みたくて注文しているのかどうか、大いに疑問に思う場合ありますが、本書は本体中味にはシミなどはありませんが、外装には痛みやシミもあります。ご承知おきください。装丁は菊畑茂久馬氏。

渡辺京二評論集成氈`「』はすでに広く知られていると思われますので、同『評論集成』以前に刊行された単行本の中から、現在庫のあるものだけをご紹介しました。

すぐれた評論のすごさは、重いとばりに閉ざされた世界をも、一気に切り裂く力をもっているところにあります。渡辺氏の評論は、まさにそうした評論の代表の一つだろうと思われます。

わたしは昔、三多に吉本隆明と渡辺さんとでは、どっちか思想家として優れていると思うかと聞いたことがあります。渡辺さんに傾倒していた三多は、吉本隆明も若い頃からかなり愛読していたからです。答はどっちだったのか、書く必要はないだろうと思いますが、今から振り返ると、当時は、渡辺さんと吉本氏を比較するという発想そのもが、ほとんど現実味のない仮定であったと思います。しかし今では、この仮定は十分に現実的な根拠をもっていたと思います。(06/5/2 久本福子)

●『神風連とその時代』(渡辺京二著、1977年刊)
は長らく品切れでしたが、この度洋泉社から同名タイトルで出版されましたのでお知らせいたします。新書判、1700円+税。(06/8/23)

 

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