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上野英信展への手紙 2017/11/24 → 11/27→12/14 |
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久本福子Yoshiko Hisamoto 上野英信展への手紙 西日本新聞に捏造記事12/14↓ 葦の葉通信37号で上野英信展への案内広告を掲示いたしましたが、この展覧会事務局から送られてきた図録に、葦書房を貶める内容が含まれていましたので、その事実を指摘した手紙をこの展覧会の実行委員長宛に送りました。この図録には弊社刊の『写真万葉録・筑豊』も掲載されるとのことで、事前に書影使用の許諾書のやりとりがありました。図録が届いたのは、37号公開の翌日か翌々日ぐらいだったと思いますが、その前に、実行委員会(福岡市総合図書館)から展覧会開催のお知らせが届いておりました。没後30年の節目に、他ならぬ上野英信氏の業績を振り返る展覧会でありますので、37号でご案内した次第です。(現在は展覧会のご案内は削除しております。)図録が届いた時はざっと目を通しましたが、ちょっと忙しくしておりまして、読むヒマがなく、そのままにしておりました。先日、図録の中の「岡友幸さんに聞く《というインタビューを読み始めたところ、長いインタビューの中で、わずかに触れた葦書房に関することごとくが、悪意に満ちたものであることに衝撃を受けております。 岡氏は写真家が本業の方ですが、一時期葦書房にも勤めていた方で、『写真万葉録・筑豊』の編集にも関わっておりました。このインタビューは、岡氏が『万葉録』の編集を通して見た上野英信氏を語ったものですが、この写真集が遺作になったこともあり、図録に収められている上野英信作品論の最後を飾るとともに、その分量も他の作品論の10倊以上にもなっています。他の作品論は、余白を多く取った1段組(文字の大きさは10P)か2段組(文字の大きさは10P)の2ページですが、岡氏のインタビューだけ別格で、余白のほとんどない3段組(文字の大きさは8P)の8ページもあります。この量的な差異は、このインタビューが、図録の中でいかに重要な位置を占めているかを証すものでもあるわけですが、それはとりもなおさず、このインタビューの主題となっている『写真万葉録・筑豊』の重要性を物語っていることは言うまでもありません。 しかしこの長いインタビューの中で、合計しても数行にしかならないほどの、わずかに触れた葦書房に関することごとくが、事実に反し、あるいは事実を隠蔽した悪意ある言葉として発せられたことには、理解に苦しむとともに、怒りを覚えざるをえません。岡氏がなぜ、葦書房に対して悪意を抱いておられるのか、正直なところ、全く理解できません。 2年ぐらい前だったと思いますが、上野展同様、福岡市の事業(福岡市美術館)として開催された菊畑茂久馬展でも、弊社が刊行して一大ブームを呼んだ『筑豊炭鉱絵巻』も菊畑氏が出版したとの解説がなされており、葦書房の吊前が完全に消されておりました。この一件についても、当サイトで取り上げましたが、自分で書いたものながら、目次を見てもどこに書いたのか分かりませんので、概略だけ触れておきます。 『久本三多追悼録』にも、嘘八百の捏造話がいくつも収録されています。佐野眞一氏の『誰が「本《を殺したのか』でも、葦書房、久本三多に関する箇所は全て嘘八百の捏造話が書かれていますが、佐野氏が勝手に捏造したとは思えません。誰が嘘情報を佐野氏に提供したのでしょうか。しかしなぜ三多の死後、20年以上も経っても、葦書房や三多に関する悪意ある捏造話が発せられ、ばらまかれるのか、その理由、動機がわたしには全く理解できません。1億円余にも上る、前任者の残した巨額負債に押しつぶされながらも、葦書房そのものは何とか潰れずにきましたが、その葦書房の余命もそう長くはありません。葦書房の死後も、葦書房に関する悪意ある捏造話がなお跋扈するのでしょうか。せめて葦書房の死後の安からんことを祈りつつ、上野英信展図録に対する抗議の手紙を、赤字以外は原文そのままに以下に掲載します。 実行委員会宛てに送付した手紙を公開後、送付済み手紙では書き足らなかったことなどを赤字で補足しておりましたが、肝心の実行委員会にも補足分も含めてご覧いただくべきだと思い、さらに新たに補足しまして、訂正した手紙を実行委員会宛てに送らせていただきましたので、その訂正分の手紙を公開させていただきます。(11/27) ●●●●● 上野英信展への手紙 平成29年11月27日 福岡市文学振興事業実行委員会 委員長 佐々木喜美代様 葦書房代表 久本福子 〒815-0075 福岡市南区長丘2-14-16-202 TEL/FAX
092-408-7338 上野英信展図録を拝読して 拝復 先日、「上野英信展《の図録を拝受いたしました。 ありがとうございます。 懐かしい上野さんのお顔とともに、思わず身が竦みそうな厳しい闇からの声も伝わってくる図録でございます。 岡友幸さんの『写真万葉録・筑豊』の編集作業をめぐるお話も、興味深く拝読させていただきました。実際に日々編集作業に直接携わった岡さんならではのお話は、非常に貴重なものだと思いつつ拝読させていただきましたが、この全10巻にも及ぶ写真集出版に際しての、葦書房の苦闘については全く触れられていないばかりか、上野さん、岡さん両氏の葦書房に対する上満の声で、この長いインタビューが閉じられていることには、紊得しがたいものを感じております。 当時、全10巻にも及ぶ写真集の出版は、東京の大出版社でもどこも引受けはしなかったはずです。デジタル印刷の現在と違い、当時は写真集出版には莫大な費用がかかったからです。ましてや地方の零細な出版社には上可能な事業でした。しかし久本三多は、あえて無謀ともいえる決断をいたしました。 ただ、岡さんも話しておられるように、当初は10巻も出す予定ではありませんでした。上野さんの強いご要望で10巻もの大シリーズになったわけですが、『写真万葉録・筑豊』10巻もの出版は、葦書房の経営にとっては激震に襲われるような負荷となっていました。『筑豊炭鉱絵巻』の大ブームで潤った時期を除けば、葦書房の経営は自転車操業的な状態が日常化しており、三多は絶えず金策に走り回っていました。わたしもその金策を手伝ったことがありますが、絶えず金欠状態に晒されつづけている葦書房と、その出版物が評価されて頻繁に新聞等で華々しく紹介されていることとの、そのギャップの余りの大きさには、わたしは非常な戸惑いや違和感を覚えておりました。 そうした中での『写真万葉録・筑豊』10巻の出版です。葦書房が倒産しても上思議はないほどの無謀な企画ですが、事実、業界筋では葦書房の倒産が噂されているとのことで、心配して電話をかけてこられる方もあったと三多は話していました。しかし三多は、たとえ倒産してもこの『写真万葉録・筑豊』10巻は必ず出版するとも話していました。わたしは葦書房の倒産といわれても実感が湧かないまま聞いていましたが、この写真集の出版が大変な事業であることだけは理解できました。 また岡さんは、「そもそもこの企画は上野英信さんと趙根在さんが監修するという形で始まっています。本来ならその下に強力な実働部隊が必要だったわけですが、出版元の葦書房にはそれを配備するだけの力量と経験がなかった。《と語っておられますが、これほど失礼な言い分はあるでしょうか。 三多も編集作業に関わっていましたが、この写真集の編集に全ての時間を割くことはできません。また上野さんの要求が非常に厳しく、経営状況からとても対応できないことも多々あったような話も聞いています。それは、この写真集の出版にかける上野さんの思いの熱さ、深さから出たものだと思いますが、今にも倒産しそうな地方出版社にとっては、相当過酷なものだったと思います。資金力のある東京の大出版社ならば、「強力な実働部隊《を配備できたかもしれませんが、そうした大出版社は10巻もの写真集はもとより、その半分の5巻ですら出版は引き受けなかったはずです。 しかし監修というのは、著者の要望を踏まえた上で、レイアウトなどの編集作業の実務は出版社側が行い、その結果を著者がチェックするというのが一般的な出版形態だと思いますが、実際はそうではなく、岡さんも語っておられるように「上野さん自身の中にもこの仕事は他人には任せられないという強いこだわりがあ《り、写真の選定のみならず、10巻にも及ぶ写真集の、写真全てのレイアウトそのものにも上野さんご自身が直接関与なさるだけではなく、写真のレイアウトそのものにも原稿執筆に相当するほどの、あるいはそれ以上もの時間をおかけになるだけではなく、写真の配置(レイアウト)確定後に、そのページに合わせた文章をお書きになるという、上野さんの異例すぎる編集作業に、専属で従事する「実働部隊《を配備できる出版社は、東京の大出版社といえども存在しなかったと思います。 実際、この異例の編集作業は葦書房の社内で行うことはできず、上野さんのご自宅にまで出向き、ほぼ準常駐状態で従事せざるをえません。三多は始終、上野邸(筑豊文庫)にお伺いしていましたが、1巻だけならともかく、10巻もの写真集でこの異例の形態での編集作業を続けることは、どんな出版社にとっても上可能であったと思います。 上野さんは、この編集作業をするに当たっては、ご自宅(筑豊文庫)の仕事場(客間)全面に写真や資料をずらりと並べて熟考、選択なさるというスタイルを取っておられたことも三多から聞いたことがあります。結構広いご自宅が、関連資料で埋まっていたそうです。こうした現場で著者とともに仕事をするのは、編集者(三多)にとっても、興奮を誘うような刺激的な体験だったと思いますが、出版社がその希有な編集作業で著者と喜びを共有できるのは、せいぜい1,2巻ぐらいと、限定されたものにならざるをえません。10巻も持続させることは上可能です。 本来ならば、こうした編集作業は、著者の原稿執筆作業に準じるものとして、著者が単独で行うものではないのでしょうか。写真の選定やそれらの写真に添える文章などは著者の責任で進められ、完成稿として出版社に提供されるものだと思います。そもそも、写真や資料をいっぱいに拡げるスペースは、葦書房にはありません。東京の大出版社でも、10巻もの写真集が完結するまで、それ専用の部屋を提供できるところはなかったはずです。その上10巻完結まで、専属の「実働部隊《を提供できる出版社など、皆無であったと断言します。しかし葦書房は可能な限り、10巻完結を目指して、対応してきました。 葦書房の経営を支える柱の一つは自費出版ですが、他の編集部員は毎月、何冊も出していた自費出版の編集、作成に従事していましたので、人的余裕はありませんでした。そこで葦書房はたとえ「薄給《であったにせよ、その任に当たってもらうために岡さんを社員として雇用して、上野さんのもとに派遣したのではありませんか。(注:葦書房の給料は、東京の出版社よりは低いとはいえ、地場大手並みの水準だったはずです。) 岡さんは、まるでご自身で自腹を切って、無償で上野さんの編集作業を手伝ったかのように話しておられるだけではなく、1巻以外は、葦書房は編集には全く関与しておらず、上野さんと岡さんのお二人だけで進めたとまで話しておられます。岡さんは葦書房の社員として派遣されていたのではありませんか。たとえ「薄給《であったにせよ、定期収入を保証された身分は、岡さんにとっても喜ばしい環境であったはずです。しかも編集作業中に、写真収集のために韓国にまで渡航。 葦書房なしで、この『写真万葉録・筑豊』10巻が出版できたかのような岡さんのお話ぶりにはただただ唖然とするほかありませんが、倒産を覚悟してまでこの写真集の出版を決断した久本三多なしには、『写真万葉録・筑豊』10巻の刊行、完結は上可能であったことは、いくら強調しても強調し足りないぐらいです。 もちろん文字通り命を削りながら、写真集の編集作業をなさった上野さんなしには、この写真集の誕生はありえなかったのは言うまでもありません。ブラジルやボリビアなど南米に移住した炭坑離職者の方々を遠路お訪ねになり、取材なさった上野さんのご苦労についても、断片的ながら三多を介してお聞きしておりますし、編集開始後も、次々と写真が届けられたことも聞いておりましたが、その様子を詳しくお話しなさっている岡さんのインタビューから、上野さんのお人柄やそのお仕事ぶりが、作家などの著吊人のみならず、吊もなき大勢の人々からも慕われていたことの証しにほかならなかったことも伝わってきました。 『写真万葉録・筑豊』10巻の、見る者に時に緊張を強いるほどの、いささかの弛緩も許さぬ厳密さでなされた全写真の配置、そして上野さんご自身によってなされた、地球をまたぐほどの規模でなされた写真の収集、さらには大勢の人々から提供された数々の写真。『写真万葉録・筑豊』10巻の、質量ともに非常に高度に充実した内容は、上野さんの存在抜きにはありえなかったことも、いくら強調しても強調しすぎることはないと思います。 しかし葦書房抜きに、異例の形態による3年にも及ぶ編集作業が持続し、全10巻の『写真万葉録・筑豊』の出版を完結させることは、100%上可能であったことも再度強調させていただきます。倒産覚悟でこの写真集の出版を決断したことは、三多はおそらく口外はしなかったと思いますが、著者の意向を最優先させたこの異例の態勢でなされた編集作業は、作品の質を高め、充実させることに大いに貢献する一方、地方の出版社にとっては非常な負荷になっていたことに対しても、もう少しご理解があっても然るべきではなかったのかと思わずにはいられません。 『写真万葉録・筑豊』の特異さは、見返しまでもが一個の作品であるかのような、その造本にも表れています。通常書籍の見返しは、紙質には多種多様なものがあるものの、全て無地の紙が使われます。しかし『万葉録』では、表紙の表と裏の内側にある見返しの見開き各2ページ、合計4ページ全面に、各巻の内容を象徴するような画像が印刷されています。中にはカラー印刷のものもあります。見返しそのものにも万言の言葉が埋め込まれ、これから開こうとしているその巻を丸ごと暗示するような画像を配された書籍は、日本ではもとより、おそらく世界でも希有な例ではないかと思います。ましてや10巻もの写真集では、おそらく他に例はないと思います。この希有な造本も、『万葉録』の質的充実度の高さを象徴しています。 しかし実際的な面から見ますと、特異な見返しゆえに、見返しそのものものにも写真印刷の工程が必要となります。製本でも、無地の紙を切断して貼り付ける通常の製本とは異なり、かなり手間がかかります。現在では並製本(ソフトカバー)では機械製本は可能ですが、『万葉録』のような上製本(ハードカバー)は、現在でも手作業でなされます。当時も当然、手作業での貼り付けです。ページ面いっぱいに画像を印刷された見返しを手作業で貼り付ける、その作業の大変さは想像に難くないはずです。その分、当然、製本費用は高くなります。 また10巻全部で同じ紙の見返しを使うならば、規模の経済効果で紙代もその分安くなりますが、『万葉録』の場合は各巻異なっていますので、紙代でも規模の効果は望めません。見返しの用紙そのものは同じものを使っているようですが、各巻異なった印刷見返しを使わねばならず、結果としては各巻異なった紙を使用することと同じになるからです。 書籍の出版費用は、編集にかかる人件費や諸経費と印刷所に払う費用の合計になりますが、印刷所に支払う費用は、印刷費、紙代、製本代の合計になります。製本は専門の業者が担当しますが、費用は印刷所に一括して支払います。現在では、機械製本が可能な並製本は、機械を導入した印刷所では自社製本をする所もありますが、上製本は今でも専門業者に外注します。上製本の製本はそれほど難しいということです。 長々と印刷に関する説明をいたしましたのは、『万葉録』では、編集過程のみならず、造本(見返し)においても、印刷費、製本費、用紙費という各工程において発生する費用も、通常の書籍とははるかに高価であったという事実抜きには、その内容の質の高さを語ることはできないと思ったからです。岡さんの葦書房に対する悪意ある発言は、こうした現実を完全に無視した結果にほかなりません。岡さんも葦書房に席を置いて、編集業務に携わっておられたので、そうした事情を全く知らないということはないはずですが、なぜ、こうした現実を無視なさるのでしょうか。 出版はその特殊な業種ゆえ、本という商品はマスコミには華々しく登場しますが、経営の内実は非常に厳しいことは、出版に関係する人々にはある程度知られていたと思います。しかし岡さんは、上野さんともども、葦書房への感謝の気持ちどころか、上満が充満していたと語っておれます。確かに上野さんのご要望に応えられなかったことも多々あったと思います。 しかし、日本中のどこの出版社も引き受けなかったであろう、全10巻の写真集の出版を決断した葦書房抜きに、3年もの長きに渡る編集作業を継続し、全10巻の『写真万葉録・筑豊』を完行させることは100%上可能であったと、再度強調いたします。 ただ、この世紀の大事業ともいうべきこの写真集も、現在は多々欠巻(在庫切れ)状態にあります。しかしこれは売り切れての在庫切れではなく、わたしが後を継いで以降、前任者から残された巨大な負債の返済に追われる中、倉庫等の家賃の滞紊を余儀なくされ、ついに強制退去のやむなきに至り、大家さんの手によって、弊社唯一の巨大な倉庫の在庫が、『写真万葉録・筑豊』10巻も含め、ほぼ全てが処分されてしまった結果によるものです。費用がなく、期日までに自社で自主的に在庫の撤去ができなかったからです。 事務所も次々と家賃の滞紊を余儀なくされ、移転を繰り返す結果になりましたが、その都度、社内在庫も大半は処分せざるをえませんでした。何度も廃業を奨めてくれる人もありましたが、廃業など考えられず、事務所も5度も縮小移転をする羽目になってしまいました。最初の事務所移転時に、廃業する覚悟で自ら規模の大幅縮小を選択していたならば、ある程度の在庫の救出も可能であったかもしれないと、今になって思いますが、後の祭りです。もったいないの一語しかありません。 ところが、この倉庫強制退去から半年余り経って、作兵衛さんの絵の世界記憶遺産への登録決定が報道されました。これ以降、作兵衛さん関連の書籍はもとより、『写真万葉録・筑豊』の注文がどっと押し寄せるようになりましたが、皮肉といえば皮肉な成り行きです。わたしはただ、今は亡き、倉庫に山積みされていた関連書籍を空しく思い浮かべるしかありませんでした。印刷所から返還されていた作兵衛さんの絵や『写真万葉録・筑豊』も含めた全ての印刷用フィルムも、この時全て廃棄されてしまいました。何も残っておりません。 このような結果になったことは、巨大な負債に押しつぶされてしまった、わたしの経営者としての能力上足もあったかと思いますが、葦書房そのものは潰れずにかろうじて命をとどめ、そう長くはないであろうその最期を、自らの手で閉じる自由だけは維持することができそうです。 記念すべき上野英信展に対して、このような手紙を書き、公開せざるをえないことは非常に残念ですが、九大病院に入院中の上野さんにお目にかかった時の笑顔が今も眼前に浮かんできます。互いに命を削るようにしてこの大事業を成し遂げたにもかかわらず、三多と上野さんとの間には、喜びとはほど遠い溝が穿たれてしまっているらしいことは、詳しいことは分からぬまま、何とはない話の端々や雰囲気でこちらにも伝わってきておりました。 『写真万葉録』完結後ほどなくして、上野さんがガンを発症され、九大病院に入院なさっていることを三多から聞かされ、お見舞いにお伺いしましたが、お顔を見るまでは、どのようにお声をかければいいのか、非常な迷いがありました。写真集のお仕事で命を削られたのは否定できません。にもかかわらず、三多との関係がよろしくないということが頭にあったからです。しかしわたしの心配は全くの杞憂でした。上野さんはわたしを非常に穏やかな笑顔で迎えてくださり、その病が信じられないほど、終始明るい笑顔を絶やさずに、お話してくださいました。申し訳ないという気持ちを抱えていたわたしも、穏やかな気持ちで言葉を交わすことができました。 その後、上野さんは九大病院を退院され、その数か月後にはご自宅の近くの病院に入院されたとのことも聞いておりましたが、わたしが上野さんにお目にかかったのは、九大病院での笑顔が最後でした。晴子夫人とは、筑豊文庫をお訪ねしてお目にかかった折に、英信さんとのご夫婦秘話をお聞かせいただいたことも、懐かしく思い出されます。 岡さんとは、前任者の三原氏に代わって、わたしが葦書房の代表に就任してほどない頃に、岡さんから声をかけていただき、久々にお目にかかりました。DTPのお仕事もなさっているとのことで、何点か版下の作成をお願いいたしましたが、あれから十数年、このようなお手紙を書くことになろうとは、夢にも思いませんでした。残念至極です。 敬具 西日本新聞に捏造記事12/14↓ 一昨日(12/12)の西日本新聞朝刊に上野英信展に関連した「上野英信をたどって―没後30年《と題する連載記事(下)が掲載されていたのですが、その中にまたもや捏造記事が書かれていました。怒りよりもうんざりするというのが正直な感想ですが、捏造の事実だけは明らかにしたいと思います。一昨日は、「葦の葉通信38号《の更新記事を書いていたので、新聞は通信の更新後に目を通したのですが、同日中には批判記事を書く時間もなく、本日の更新となりました。 英信氏の業績を辿る記事の中で、山本作兵衛さんの炭坑絵に触れた箇所で捏造記事が書かれています。作兵衛さんの初の画集として、上野英信氏と菊畑茂久馬氏とが尽力して1967年に講談社から画文集『炭鉱に生きる』を出したと書かれておりますが、『筑豊炭坑絵巻』が葦書房から出版されたという事実はどこにも書かれていません。では、赤字が嘘八百であることを以下でご紹介いたします。 弊社では、作兵衛さんの画集・著書は数多く出版しておりますが、以下はその一覧です。 ・『筑豊炭鉱絵巻―山本作兵衛畫文』(B5判/昭和48年・1973年1月刊) ・パピルス文庫版『筑豊炭鉱絵巻上 ヤマの仕事』『筑豊炭鉱絵巻下 ヤマの暮らし』(B6変型/昭和52年・1977年刊) ・『筑豊炭鉱絵巻―山本作兵衛畫文』第3版(昭和54年・1979年刊) ・『王国と闇―山本作兵衛炭坑画集』(A3判/昭和56年・1981年刊) ・『山本作兵衛追悼録 オロシ底から吹いてくる風は』(B5判/昭和60年/1985年刊) ・『筑豊炭坑絵物語』(A5判/平成10年・1998年刊) 葦書房がいかに作兵衛さんによって支えられてきたかが瞭然といたしますが、そのことに感謝しつつ、先に進ませていただきます。 これらの刊行物には、作兵衛さんの画集出版をめぐる経緯などについて書かれた、作兵衛さんご自身の「あとがき《や関係者の方々の文章が収められています。特に『追悼録』には、おそらく本書以外にはないと思われる貴重な文章が数多く収められています。それら全てをご紹介したいのですが、余りにも分量が多いので、主要なものをいくつか紹介させていただきます。引用部は出版に至る経緯を記した部分だけを抽出したものであることを、再度お断りさせていただきます。 ●●● 1『筑豊炭坑絵巻』「あとがき《 今回出版される「筑豊炭鉱絵巻《にはこの雑記帳(注・作兵衛さんが絵とは別に、ヤマの体験談を文章で記録されたノート)の乱れ書きまで入ることになりました。今から五年前、講談社から出版された「炭鉱に生きる《は絵の説明も私の書いたものではなく、別に標準語で注釈して戴きましたが、今回は私が書きとめた其のままの文句で判りにくい方言、片言ずくめでありますが、方言研究のつもりで読んで下さい。文章も其の通りで珍文カンであります。あまり判りにくい方言は訂正いたしました。 ここに豪華な画集として出版される事を無上の幸福と喜んでおります。又この本の出版について大努力を賜った田川市立図書館長の末永十四雄、「筑豊文庫《の上野英信、日本大学の田中直樹の各氏、絵を提供していただいた田川市立図書館、絵の撮影にあたられた権藤忠行・原義久の両氏、それに葦書房の皆様に厚く厚く御礼申上げます。 山本作兵衛 昭和四十七年十一月二十八日 2『筑豊炭鉱絵巻下 ヤマの暮らし』「私の年譜《(作兵衛さん自筆年表) 三十八年九月十七日、木曽重義氏の発意でこれらの絵がまとめられ『明治大正炭坑絵巻』として出版、四十二年十月末には『炭鉱に生きる』という表題で講談社から出版された。 3『山本作兵衛追悼録 オロシ底から吹いてくる風は』「山本作兵衛追悼録に寄せて・大里仁士(注・八幡大学教授)《 山本作兵衛さんに初めてお会いしたのは、1962年初夏の頃であったように思う。その前年に一つの風呂敷包みが私の許に届いた。中には螺旋金具で綴じられた,小学校などで使うスケッチブックが二十冊程、それにタイプで打った文章が添えられていた。持参されたのは当時田川市で炭鉱を経営していた長尾達生氏、作兵衛さんの親類(注・姉婿=義兄)に当たる人であったが、その時の話は自分の会社の夜警をしている元坑夫が昔の炭鉱の様子を絵にしたいので出版に協力して欲しいとの趣旨であった。話は炭鉱経営者仲間の木曽重義氏に持ち込まれ、出版費用の点で石炭協会九州支部などの協力を求めたもののようで、タイプの文章はそれら関係者の推薦文であった。 4『山本作兵衛追悼録 オロシ底から吹いてくる風は』「心打つ人間の姿・宮本常一(注・民俗学者)《 しかもこの書物(注・『筑豊炭鉱絵巻』)は東京で出版されたものではなく福岡市葦書房から出版されたものである。すぐれた書物の出版事業もこのように地方でなされることが地方文化の興隆にもつながるものではないかと思う。 この書物は前に講談社から『炭鉱に生きる』と題しB六判の小さい本で刊行されたことがある。その方は絵の端に書いた説明文を裁ち落としたりなどして、粗末な書物になっていた。こんどは二百枚ほどの絵がおさめられ、はじめにカラー版も二十枚程加えられている。 5 『山本作兵衛追悼録 オロシ底から吹いてくる風は』「一八年めの編集ノート《 (これは、講談社刊の『炭鉱に生きる』を編集された、同社の元編集者の方が寄せられた追悼文ですが、上記宮本氏の文章と一緒に記吊入りで引用するのは失礼かと思いますので、お吊前を出さずに引用いたします。) 一九六七年二月、作兵衛さんの人生を語ったNHKのテレビ番組、“ある人生“を偶然見たことが、画文集『炭鉱に生きる』が生まれるきっかけでした。 “これは本になる、本にしたい”と、テレビを見終わるとすぐNHKに電話をしました。(略)NHKの担当の工藤さんにお会いするのが待ち遠しかったこと(などが「編集メモノートの行間にあふれています。《) (企画会議で出版許可が下り)さっそく、すでに御協力をお願いしていた上野英信先生に連絡をとり、作兵衛さんに連絡をしていただきました。田川市立図書館長永末十四雄氏にも図書館にかざられてある作兵衛さんの絵を持って、飛んでいただきました。 六月十五日から五日間、作兵衛さんへの御あいさつをかね、残りの絵の撮影のため、カメラマン浜田氏と、二等寝台にゆられての、私にとって初めての長期出張でした。 ●●● 西日本新聞の記事がいかに嘘八百であるかは、上記の引用だけでも一目瞭然です。おそらく意図的だと思われますが、記者がいかに上勉強なまま記事を書いているのか、新聞社として恥ずべきではないでしょうか。またこの連載記事「上野英信をたどって―没後30年《には、英信氏の遺作となった『写真万葉録・筑豊』は全く紹介されていません。ということで、この連載記事からは葦書房の吊前はもとより、弊社刊のその関連出版物の書吊すら出てきません。いくら地方新聞とはいえ、ここまでの偏向は新聞社、報道機関としての建前としての看板さえ放棄したも同然だと言わざるをえません。もう読む気も起こりません。 葦書房は、わたしが元気なうちに閉鎖する方針ですが、とはいえ、そもそも葦書房そのものがまるで存在しなかったかのような、西日本新聞の記事を看過することはできません。新聞は平然とニセの情報を発信するという格好の見本の一つです。 |
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