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沖縄と福島原発 2015/4/16

葦の葉通信3号↓

 明日は安倍総理と沖縄の翁長知事との初会談が行なわれる予定だとのことですが、なぜ沖縄にだけ基地負担が押し付けられるのか、この沖縄の怒りは安倍政権にだけ向けられたものではなく、我々全国民にも向けられたものだと思います。米軍駐留は日本の安全保障には不可欠だとは思うものの、代替地なしの普天間基地撤去は不可能なのでしょうか。沖縄には日本の米軍基地の約74%が集中しているそうですが、移転先の辺野古基地の面積はその内のたった0、4%にしかすぎないことをつい最近知ったばかりで、驚いています。0、4%の辺野古の代わりぐらいは、73%余りも占める既存の沖縄の米軍基地内に代替地をみつけられそうに思われますが、それほど広大な面積を占有しながら、なぜ既存の米軍基地内に代替地がないのでしょうか。こういう発想も沖縄に基地を押し付けることにしかならないわけですが、たった0、4%の基地を作るために、なぜわざわざ海を埋め立てなければならないのか、沖縄県民ならずとも疑問に思わずにはいられません。

 ところで先週と今週、東電が福島原発1号機の格納容器内をロボットを使って調査しました。わたしはその結果公表をどきどきしながら待っていましたが、13日に1回目の調査画像が公開されました。映像には格納容器内に張られているネットの編み目と壁が鮮明に映っていましたが、損傷らしきものは見当たりません。全燃料棒が溶け落ちたとされているのに、周辺部とはいえ、これほど無傷に近い状態でありうるのかと、あらためて疑問が膨らんできています。溶融した燃料棒は2800℃もの高温を発する、100トン前後もの巨大な金属の塊であり、その燃料棒を支えていたステンレス製のラックも一緒に溶けているはずですので、周辺も損傷を受けずにはいないはずですが、ほとんど無傷に近いとは非常に不可解です。全溶融が事実であるならば、よほど特殊な溶融の仕方をしたとしか思えません。巨大な象の足と呼ばれる溶融燃料塊を生み出したチェリノブイリ事故とは異なり、燃料棒が一気に瞬時にすっと底に落ちたのか、あるいは少しずつ(数本ずつ)順番に底に落ちたのか、周辺には損傷を与えないような落ち方をしたのでしょうか。線量は高かったということですが、温度は19℃前後です。全溶融にしてこの低温。これも不可解。15日、16日にも2回目の調査が実施されましたが、1回目よりも内部はきれいらしい。2回目の映像の公開も待っていましたが、この映像は後日に公開とのこと。残念です。

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図書出版葦書房 久本福子
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葦の葉通信3号 2015/4/16  久本福子

1百済展と歴史の真相

2月に九国博で開催中の百済展を見てきました。この展覧会を見てわたしは、日本は古代からすでに百済(朝鮮)よりもはるかに文化先進国であったことを確信しました。とはいえ展覧会の展示は、例によって、百済の先進文化が日本に伝わったという真逆の歴史的洗脳を意図したものでした。しかし展示物は、展示者の意図とは真逆の事実を歴々と証明していました。

 今展の目玉は、韓国考古学史上最大の発見とされている武寧王陵の墓誌石と副葬品および、王興寺(577年創建)跡出土の宝物ですが、これらの出土品は、朝鮮半島の先進文化が日本に伝わったことを証明するものだとのコンセプトで展示されていました。武寧王陵は、朝鮮半島にある古墳の中では、被葬者が特定された唯一の陵墓であり、その意味でも非常に貴重なものですが、武寧王は、葦の葉通信1号でも紹介しましたように日本生まれであるという特異な経歴の人物です。

 この王様のお墓の副葬品の一つ、合奏されている王妃が使ったものだという古代のアイロンである熨斗(ノシ)が展示されていました。熨斗は日本各地の古墳からも多数出土しているそうですが、武寧王陵の熨斗と酷似したものとして、大坂府の高井田山古墳から出土した熨斗(5世紀)が展示されていました。解説には朝鮮の熨斗が日本に伝わった(証拠だ)とされています。日本で出土した熨斗の最古品が何時頃の物なのかは知りませんが、展示物だけ見ても5世紀産の日本の熨斗の方が、6世紀の武寧王陵のものよりは古いということは歴然としています。にもかかわらず、解説は日本が朝鮮を真似たという趣旨になっています。

 同様の例として、武寧王陵に副葬されていた獣帯鏡が展示されていました。獣帯鏡も日本各地で出土していますが、朝鮮の獣帯鏡から影響を受けたものとして、宮崎(5世紀)、熊本(6世紀)、滋賀(2点、6世紀)の古墳から出土した獣帯鏡が並んでいました。武寧王陵のたった一枚の獣帯鏡から、獣帯鏡も朝鮮から日本に伝わったとする解説には唖然とせざるをえません。日本各地の古墳からは銅鏡が多数出土しており、一つの墓に数十枚もの銅鏡が副葬されていた例も珍しくはありません。中国産の銅鏡は紀元前から日本に伝わったと言われていますが、魏誌倭人伝には239年に魏から卑弥呼に銅鏡100枚が下賜されたことが記されていることは有名です。

 また、弥生時代後期のものだという福岡県前原市の平原遺跡からは破砕された銅鏡39面が見つかっていますが、日本国産の彷製鏡(ボウセイキョウ)5面も含まれているという。調査団長として同遺跡の発掘調査に当った原田大六氏は、破砕された鏡の復元にも心血を注がれましたが、銅鏡のほかにも鉄製の太刀、ガラス玉の首飾り、メノウの管玉、勾玉や琥珀の耳環などの装飾品も多数出土しています。弊社では、原田氏の世紀の大業績をまとめた『平原弥生古墳ーオオヒルメノムチの墓』(「オオヒルメノムチ」は天照大神マテラスオオミカミの異称)を出版していますが、復元された銅鏡が原寸大で収録されており、非常に貴重な資料集です。

 こうした出土品からも明らかですが、日本では、朝鮮半島では未だ百済も新羅も存在していない弥生時代から、中国から銅鏡が多数伝来していただけではなく、中国鏡を模倣したものだとはいえ、国産鏡も多数作られていたわけです。卑弥呼の鏡ではないかとして有名な三角縁神獸鏡は中国や朝鮮にも類似品がなく、日本の国産鏡ではないかとの説もあるらしいですが、案外これが正解かもしれません。卑弥呼や銅鏡に関しては複雑多岐に渡る論争もあり、素人には判断のつかない問題も多々ありますが、古代文化は全て中国や朝鮮から伝来したものばかりで、日本は文化後進国で、日本発の文化は皆無だというような大前提をまず棄てる必要があるのではないでしょうか。

 この非科学的な大前提を棄てて歴史を虚心に見るならば、銅鏡に関して日本は朝鮮よりもはるかに先進国であったことは、中国産、国産の銅鏡の制作年代や圧倒的な数を誇る 出土数からも明白です。古代の日本は、非常に積極的に中国から銅鏡を移入(中国皇帝への朝貢の返礼品を含む)していたことは周知の事実です。九国博の解説はこの歴然たる事実を無視したものだと言わざるをえません。日本の古墳には大量の銅鏡が埋納されているのは、銅鏡が日本的な宗教性を仮託しうる神器として受容されていたからではないのかと、素人推測をしております。昔、京都の展覧会だったかで、磨かれた銅鏡を見たことがあります。磨かれた銅鏡を見たのはこの時が初めてでしたが、現在のガラス製鏡よりもはるかに深みのある輝きを放っているのには、心底驚いた記憶があります。深い輝きを放つ銅鏡は、太陽の化身ともみなされていたのではないかとも想像しますが、この銅鏡を太陽に透かすと、裏面の彫像が映し出されるという神秘的な実験結果も最近発表されています。当時の人々もこういう現象を目撃したのかどうかは分かりませんが、日本での銅鏡受容は単に権威の象徴としてだけではなく、韓国はもとより発祥地中国にもない、日本人固有の宗教的心性が背景にあったのではないか。日本が百済の銅鏡を模倣することなど、100%ありえなかったはず。

 しかし同様例はさらに続きます。もう一つの目玉展示品である王興寺跡出土品です。仏教は外来宗教ですので、中国や朝鮮半島からの伝来なしには日本に伝わらなかったことは当然ですが、そのことをもって、朝鮮は日本よりも文化先進国であったと断じるのは余りにも早計です。展示のコンセプトは、王興寺跡出土品は日本の飛鳥寺のお手本になったものであり、朝鮮文化の先進性を示しているというものでしたが、仏教が日本よりも先に中国から朝鮮に伝えられたことは事実だとしても、それは朝鮮の先進性を証明するものではないというのが、展示を見てのわたしの率直な感想です。

 王興寺と飛鳥寺の類似点はいくつも指摘されていますが、その一つが伽藍配置です。飛鳥寺は三つの金堂が塔を囲む1塔3金堂式ですが、王興寺は一つの金堂と塔が一直線に並んでおり、素人にはどう見てももそっくりには見えません。次はこれまたそっくりだとの説明つきで並んでいる、王興寺と同じ百済の時代に建立されたらしい金剛寺と、飛鳥寺で使われていた軒丸瓦。ネットには王興寺と飛鳥寺のそっくり瓦が並んで紹介されているにもかかわらず、なぜ本展には王興寺の瓦ではなく、金剛寺の瓦が展示されているのかは不可解至極ですが、王興寺のコーナーに展示されていましので、代替品として展示されていたようです。しかしこれも一目で、似ていないことは明白でした。金剛寺の瓦は梅の花弁を模した5弁が彫り込まれており、丸みを帯びた素朴な花弁の形象が特徴です。一方、飛鳥寺の瓦は同じく花弁が彫り込まれているとはいえ、花弁の数は金剛寺の花弁の倍以上もあります。しかも、丸みを帯びて鄙びた印象のやや寸つまり感のある金剛寺の瓦に比べると、飛鳥寺の瓦の花弁はすっと長く伸びており、非常にシャープな形象が特徴です。飛鳥寺の瓦の花弁は、仏教に関わりの深い蓮華を映したものであることは明白です。蓮華の花弁は多弁で長い。

 両仏教寺院の展示されていた軒丸瓦を比べると、金剛寺では梅の花弁が文様として使われており、飛鳥寺では仏教の核心を形象化した蓮華が使われています。しかも瓦のデザインも金剛寺のものは素朴、飛鳥寺はシャープに洗練されていることは、一目で即了解できるほどに明瞭でした。しかし説明プレートには、どちらの瓦も蓮華文軒丸瓦と表示されていました。これほど特徴の異なる現物を前にしながら、専門家はなぜ両者はそっくりだ、王興寺は飛鳥寺のお手本だと断定するのか、素人のわたしにはまったく理解不能です。

 しかも同様例はまだまだあります。塔を建てる時に心柱に納める塔心礎埋納品も両者そっくりだとされています。しかし埋納品の種類、使われている素材の種類も飛鳥寺が王興寺よりもはるかに多く、しかもデザインも王興寺よりも、飛鳥寺の方がはるかに高度で洗練されています。わたしは仏教美術の知識は乏しく、現物を見ただけでこれを書いていますが、九国博などの一部の専門家は、現物を無視して歴史の裁定を下しているとしか思えません。昔見た朝鮮の仏教美術展での印象も、今回と全く同じであったことを思い出しています。朝鮮の曼陀羅は俗習ふんぷん、日本のどんな曼陀羅とも全く異質、とても日本の師匠となりうるものではありませんでした。仏像も非常に素朴でした。雄渾、あるいは流麗な日本の仏像を見慣れた目には、とてもこれらの仏像が日本の仏像の師匠格に当るとは思えませんでした。

 百済展では、百済の優美な仏教美術も売りの一つになっていましたが、ええっ、これだけというのが正直な感想です。ポスターでは異常に拡大して客を騙していましたが、展示の百済仏は非常に小さいミニチュアでした。異常に拡大したポスターで見ると、広隆寺の弥勒菩薩によく似ています。京都広隆寺の弥勒菩薩と韓国で見つかったという韓国国宝の弥勒菩薩(どこのお寺に安置されていたのかは不明)との類縁関係にも疑義があるようですが、本展の超ミニの百済仏も本当に百済産なのか、疑わずにはおれませんでした。対馬で盗んだ仏像の代わりに韓国人僧侶が持ってきた、土産品用のミニチュア仏像を思い出しました。超ミニの仏像ならば大きな仏像よりも作るのは遥かに容易ですし、安置するお寺がなくとも存在しえますが、通常の仏像では、どこのお寺に安置されていたのかが不明だということはありえません。しかし韓国では、お寺以外には安置する場所はありえない仏像も、お寺なしに仏像だけがぽっと発見されることもあるらしい。

 前回に引き続き、今回も展示の余りの皮層さを目にさせられてもやもや、イライラしながら百済展を後にしましたが、同時開催されていた「日本発掘ー発掘された日本列島2014」の会場に一歩足を踏み入れるや、瞬時にしてイライラは収まりました。これほど大規模な古代の発掘品を見るのは初めてです。特別記念ということで、旧石器時代から始まって、縄文、弥生、古墳時代など、長大な時間の流れに沿った展示です。しかも北海道から沖縄までの日本列島を網羅した広大な空間が一挙に収まった展示でした。発掘展示品の数も非常に多く、質量ともに充実していました。

 石器の微妙な変化が、何千年もの時の流れを映し出していることが、はっきりと伝わってくる展示でした。数多くの発掘物からは、先史時代の日本列島にも北から南まで我々の祖先の暮しが営々と営まれていたことや、そうした暮しの中から非常に豊かな文化が生まれ、脈々と受け継がれてきたことが肌身に伝わってきました。複雑な形象をもつ縄文時代の火焔土器や遮光土器は、それ単独で見ていると、唐突に生まれたのかとも思ってしまいますが、長い時間軸の中で、多数の発掘物の一つとして眺めていると、人々の生活の中からある種の必然に促されつつ、ごく自然に生み出されたものであるということが納得されてきます。おそらく宗教的な祈りの形象化を意味しているのではないかと、素人の想像を働かせています。日本各地で数多く発掘されている、非常に複雑で高度な形象性に富む土偶も、原初的な宗教性を帯びていたものだろうと想像しています。つまり日本列島には、少なくとも縄文時代にはすでに宗教的な祈りを求める心性が人々の中に芽生え、それを形象化するほどに高度で深い宗教性とそれを可能とする技術が存在していたということです。

 宗教的な祈りとは、自然であれ何であれ、人間を超越したものの存在を認識しうる精神

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の働きによって発現するものであり、動物には起こりえない人間固有の属性ですが、人類がこの属性を獲得するまでにはかなりの時間を要したはずです。縄文人の暮らしを支えていた宗教性は、時代が下るにつれその発現形態は多少は変化しつつも、その根本は一貫して変わらずに受け継がれてきたのではないかと思われます。大阪府高槻市の今城塚古墳(6世紀前)からは、300点以上もの埴輪が出土したそうですが、本展ではその一部が展示されていました。一部とはいえ、その巨大さと造形の美しさには驚嘆しました。家や牛や鶏や太刀などに交じって巫女や力士の埴輪も含まれていましたが、力士はまげも回し(ふんどし)も現在のお相撲さんと全く同じであるのにはびっくり。現在の相撲にも神事としての側面が継承されていますが、力士埴輪も巫女埴輪ともども、黄泉の国で神事を行なう任務を帯びていたでしょう。とすると、相撲の歴史は、少なくとも6世紀にまで遡ることになりそうです。

 発掘展示品は他にも多数ありましたが、これらの発掘物はいずれも、文字を持たない有史以前の大昔から、日本人の祖先は非常に複雑で豊かな精神を有していたことを雄弁に物語っています。古代にあっては、宗教的な心性は最も高度な文化そのものであり、日々の暮しの人々の唯一最大の拠り所であったはず。まつりごと(政治)も、人々のこの宗教的な欲求に応えることが唯一最大の任務であったはずですが、日本発掘展では、期せずして、日本の古神道の源流をも辿ることができました。昨今は、日本神道の源流は朝鮮半島にありという荒唐無稽な説までが登場し、宗教心皆無の韓国人を喜ばせているようですが、九国博をはじめとした専門家の方々は、事実を無視して観念の世界の中だけで自国の優秀性を誇るという、韓流思考や韓流エセ学問に汚染されてしまっているのではないか。『日韓・歴史克服への道』の下村正男氏や非韓3原則を提唱されている古田博司氏(『東アジア「反日」トライアングル』ー文春新書、『新しい神の国』ーちくま新書)によれば、韓国人のこの思考特性は歴史的に形勢されてきたものなので、変わりようがないとのことですが、日本人学者までもがこの韓流思考にはまってしまってはどうしようもないですね。

 しかしこの日本発掘展は、百済展でのイライラを解消してくれただけではなく、百済展を補充する役目も果たしてくれました。王興寺は飛鳥寺よりも先に建立されていますが、両寺の創建は、ほぼ同時代の6世紀です。百済からの工人たちの力を得て飛鳥寺は建てられたとされていますが、両寺を巡る築造技術の違いの由来を日本発掘展は明らかにしてくれました。仏教という外来宗教をお祭りする建物の仕様は仏教特有の様式を持っており、教えてもらわなければ日本人は知りません。高句麗を含む朝鮮半島の工人か、半島内に住む中国人の工人たちが来日して、そうした知識を日本の工人たちに教えたのは事実でしょう。日本の工人たちは、日本発掘展が証明するとおり、もともと非常に高度な造形力や技術を有していましたので、教えられた仏教仕様を踏まえた上で、もともと彼らが持っていた技を最大限に発揮して飛鳥寺を造ったのではないのか、というのが現物を見ての素人の推測です。ちなみに大英博物館によると、日本の縄文土器は世界最古の土器、器だとのこと。NHKラジオの大英博物館展案内番組で聞いて、驚いています。縄文時代の日本は、中国よりも先進的であっただけではなく、世界一だったとは!

 この百済展の後、九国博の開設段階からすると13年間、開館後から10年間館長を務めてきた三輪嘉六氏が、館長を退任するとの発表がありました。新館長は東京国立博物館副館長の島谷弘幸氏ですが、新館長には、反日展示には厳しく目を光らせていただきたい。

 それともう一つ、九国博の道路標識に関しても不可解なことに気がつきました。わたしは30数年前には太宰府に住んでいましたが、福岡市に移転してからは、太宰府にはたまにしか行きませんので、道路標識を参考にして走ります。昨年11月も九国博行きの標識に従って行ったのですが、九国博は天満宮の敷地内にあるにもかかわらず、標識に従って走ると、天満宮とはかなり離れた遠回りの順路になっていました。到着後、この順路は九国博専用の駐車場へのルートであることが分かったのですが、専用駐車場は狭いらしく、まったく動かない長蛇の列が待ち構えていました。わたしはびっくりして、後尾が塞がれる前に列から抜け出し、天満宮の駐車場に移動しました。ところが、天満宮と同じ敷地内にありながら、博物館が山のてっぺんにあるせいか、ぐるぐる回り回って、かなりの距離を走って、やっと天満宮の駐車場に辿りつきました。この長蛇の列からの脱出は、九国博と天満宮との位置関係や、天満宮には広大な駐車場があることなどを知らなければ誰も思いつかないはずです。

 余りにも異常な状況でしたので、わたしは自分が標識を見間違えたのかと思っておりましたので、2月の訪館時には、標識確認も意識して行ないました。やはり福岡市方面(北九州や本土方面)から行くと、太宰府方面には天満宮の文字は一字たりともなく、九国博の標識しか出ていませんでした。この標識どおりに進むと天満宮には辿りつけません。のみならず、この辺りの地理に不案内の人には、直通ルートを通って博物館に入ると、博物館が天満宮の敷地内にあることも、すぐそばに天満宮があることすら全く分かりません。博物館内にも天満宮方面を示す矢印などの標識は皆無です。地元はもとより近隣からの訪問者は、博物館のすぐ下に天満宮のあることは誰もが知っているとはいえ、天満宮方面の標識が皆無であるのは、考えてみれば非常に不可解です。天満宮周辺には博物館方面の標識はあちこちにあります。九国博は太宰府天満宮から無償で提供された天満宮内の敷地に建てられいますが、天満宮は長い歳月に渡って九国博誘致にも尽力してきました。

 太宰府といえば、九国博以前にまずは太宰府天満宮であることは説明不要でしょう。訪問客も九国博よりも天満宮の方が比較にならないほど多いことは言うまでもありません。わたしは、九国博開館時にも行きましたが、その頃の標識は九国博ではなく、鳥居の図柄つきの太宰府天満宮の大きな標識が出ていました。その後も天満宮の鳥居つき標識は目にしていますので、いやでもドライバーの目につく道路標識から太宰府天満宮がはずされ、九国博だけが唯一太宰府方面を案内する標識であると変えられたのは、そう古いことではなく、ここ数年のことではないかと思われます。

 道路標識は九国博(文科省)の管轄ではなく、国交省の管轄ですが、九国博からの働きかけで変えたのか、国交省が自ら変えたのかは外部の人間には分かりません。国交省はここ10年ほどの間、公明党の配下にありますので、国交省の出先機関の末端で、天満宮への嫌がらせのため、道路標識から天満宮の名前を消したという可能性もゼロではありません。わたしは昔住んでいた家で、公明党配下になった国交省の地方整備局のお役人が、留守中に勝手に庭に入りこみ、無断で井戸を開けられたという無気味な経験をしています。井戸の上には国交省地方整備局の貼紙が添付されていましたので、後で電話で確認しております。こういう経験をしておりますので、わたしの推測は荒唐無稽なものではありません。しかし推測としては成り立つとはいえ、公明党が、これほど露骨に天満宮排除をするのかとの疑問も同時に沸いてきます。天満宮排除がそれとして知れ渡ると、公明党へのイメージは悪くなることはあってもよくなることはありえないからです。

 とはいえ、道路標識は国交省の管轄です。公明党の国交大臣直々の指示はありえないとしても、九州整備局の現場では天満宮よりも、反日思想喧伝機関と化した九国博の方を強くアピールしたいと願う勢力が、かなり力を伸長しているのではないか。この勢力は太宰府は韓国が作ったと喧伝する勢力と同一でしょう。この勢力が道路標識から太宰府天満宮を抹殺したものと思われます。 

 つい先日も、大田国交大臣は韓国で開催されていた水フォーラムに出席し、日中韓で水の管理や水循環に関する技術を共有して途上国に広めることで合意した共同宣言を発表したという。加えて韓国の国交大臣とは、老朽化したインフラ対策に関しても会談をしたという。水は今後、世界規模で争奪戦が展開されることが確実視されている分野です。日中韓が技術協力するということは、日本の最先端の技術を中国、韓国に無償で提供することを意味しています。にもかかわらず、「共有」という言葉の使用は、この事実を隠蔽した上で、日中韓があたかも対等で技術を開発したかのようなイメージさえばらまく結果になります。日本の陰徳に中国、韓国が感謝すればまだしも、彼らは平然と自力で技術を開発したと喧伝し、世界中に輸出しまくるばかりか、巨大な金づるを離すまいとして、日本を延々と叩きつづけます。

 水循環について会談するのであれば、韓国が今現在も海洋を汚染する糞尿排泄物の海洋投棄を国が認めているという事実を問題にし、日本の水循環システムを有償で導入するように話を持っていくべきではないか。中国もおそらく似たような状況だろうと思います。北九州市はアジアの新興国に水循環システムを有償で輸出することに成功しています。国が無償で中韓に技術供与するならば、地方自治体の努力も水の泡。日本のインフラ企業が受ける打撃は重大です。家電分野のみならず、日本でも導入が急ピッチで進む太陽光発電のパネルも、海外はもとより日本国内においてさえも、中国産と韓国産が国内産を駆逐する勢いでシエアを伸ばしつつあるらしい。技術は日本直伝で日中韓はほぼ同レベル。日本産が価格の安い中韓産に駆逐されるのは当然です。公明党は中国、韓国の売国的手先となって、水循環やインフラ分野でも日本企業潰しに手を貸すな!と言いたい。日中韓が共同で取り組むべき課題は、排泄物を含む産業廃棄物の海洋への不法投棄防止や鳥インフルエンザ対策ではないか。韓国奉仕団は自民党内にも大勢いますので、公明党への警告は自民党への警告でもあることは言うまでもありません。 

 

2高麗は日本をモデルにした  

 昨年11月の九国博では、韓国の代表的な古墳壁画の映像も公開されていました。日本人のプロのカメラマンが撮影したものですが、古墳の保存状態が悪かったのか、映し出された像は、いずれも消えかかったような不鮮明なものばかりでした。しかし韓国の古墳壁画がどのようなものであるのかを知るには十分でした。古墳によって多少違いはありましたが、人物を描いたものもあれば、四神を描いたものもありました。といえば、日本の高松塚古墳の壁画などを想像されるかもしれませんが、全く似ていません。そもそも韓国の壁画は描法そのものが素朴というか非常に稚拙で粗い。その余りの稚拙さに、わたしは正直なところ、非常に驚いてしまいました。日本の壁画と比べると、大人と幼児くらいの違いがあったからです。展示されていた壁画は韓国を代表する4、5基の古墳のものでしたが、いずれの壁画も似たようなものでした。
 

  以前ネットで、日本人向けの韓国の公的サイトで高麗文化を紹介していたのを見たことがありますが、そこには高松塚古墳壁画や法隆寺壁画と瓜二つの映像が掲載されていました。韓国には日本とそっくりの壁画があるのかと思っていましたが、これは韓国が日本にパラサイトしたイメージ操作だったと思われます。というのは、九国博に展示されていた韓国の古墳壁画は、撮影データも詳細に記録されたもので、韓国の古墳壁画の現物そのものであることが明確であり、展示品以上に優れた古代壁画は韓国には存在しないことは明確だからです。

 実は、似たような現象が福岡でも発生しています。1、2年前、福岡県筑後市に文化施設が新設されたのですが、そのオープン記念に、地元の子供たちに法隆寺壁画そっくりな画像を模写させるというイベントが開催されました。さらに驚いたことには、この法隆寺壁画そっくりな画像には高麗という大きな文字が添えられています。なぜ福岡で法隆寺壁画なのか、なぜ高麗なのか。このイベントの狙いは明らかです。法隆寺壁画に象徴されるような仏教や仏教美術は高麗、朝鮮、韓国からもたらされたものだという捏造歴史を、イメージ操作によって子供たちに刷り込もうとしていたわけです。この施設は東京芸大が関わっているそうですが、東京芸大も反日勢力に汚染されているらしい。

 しかし問題はこれだけではありません。筑後地方をはじめ九州各地には、ヤマト系とは全く異質な装飾古墳が多数存在します。描かれた文様はいずれも抽象的なものばかりですが、非常に鮮やかな色彩をもつ、造形的にも非常に美しい壁画ばかりです。九州以外には類似したものはありません。朝鮮半島にはもとより中国にも類似したものはありません。(弊社刊塩見桂二文/榊晃弘写真『装飾古墳のふしぎ』参照。)この古墳壁画の由来の解明は日本人のルーツ解明にも関わってくるはずですが、ヤマト系ではないせいか、研究もほとんどなされておらず、保存にもさして注意が向けられていません。放置されたままなので、発見、発掘当時の鮮やかな色彩は失われているはずですが、筑後地方にも残るこの不可思議で美しい古墳壁画には目もくれず、高麗という文字入りの法隆寺壁画を地元の子供たちに模写させるというのは、いったいいかなる了見なのでしょうか。この子供たちはもうこの時点で、日本の文化は韓国からもたらされたものなのだと信じて疑っていないはずです。

 韓国人は日本文化は韓国が作ったと主張しつづけていますが、それを証明するものは韓国には存在していません。朝鮮文化の華であるはずの百済展を見ても、彼らの主張を裏付けるような遺物は見つけることはできませんんでした。解説には漢字のみならず乗馬の風習までもが百済からもたらされたと書かれていましたが、当時日本は百済に対して、512年には筑紫馬20頭、554年には新羅との戦いに備えて馬100頭を送っています。(「日本書紀」)これでも乗馬までもが百済の方が先進国だったといえるのでしょうか。

 確かに「魏志倭人伝」には倭国には牛馬はいないと記されていますが、「魏志倭人伝」

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に記された卑弥呼の時代から300年ほど後の倭国には、百済に大量の馬を送るほどの馬がいたわけです。馬までもが百済や中国からもたらされたと説く学者もいますが、気候温暖で植物の繁茂する日本列島に草食動物の牛馬がいないはずはありませんし、日本列島には恐竜までもが生息していました。卑弥呼の時代には、牛馬の生息する地域は統治下には入っていなかったと見るのが自然ではないですか。時代が下るに連れ、倭国の統治域は拡大しています。馬の埴輪も多数出土しています。馬が有用に活用されていた証拠です。朝鮮半島には馬の埴輪どころか、埴輪そのものさえ存在していません。

 百済滅亡後(660年)の663年、日本は唐、新羅の連合軍との戦いに敗北するや、唐、新羅の侵攻に備えて大野城を築城します。今年で築城1350年を迎えるという大野城は、百済にある山城とそっくりだそうですが、百済滅亡の100年以上も前の548年には、日本は370人もの人を百済に派遣して百済の築城を助けています。展示の解説によれば、大野城は百済の山城をモデルに、百済人の指導を受けて築城されたとのことで、部材などの一部が展示されていましたが、百済由来とは思えないような展示品ばかりです。百済にはもとより世界にも例のない木製の水路(木樋)や、百済のものよりも巨大な城門などの他、天皇の命により城の基礎部の下に埋納されていたという、鋤先や鉋や鏡のミニチュアの地鎮具も展示されていました。鋤や鉋は築城で使う土木大工道具ですが、銅鏡のミニチュアは道具ではなく、今現在にまで伝わる日本の神道を象徴する神器です。これらの地鎮具が、国家事業である築城に埋納されたということは、律令制の核心ともいうべき神祇令制定前なのか後なのかを問うまでもなく、日本では600年代にはすでに、神道によるまつりごとが制度として確立していたことを明確に証明するものではないかと思われます。

 百済には存在しない大野城に使われている高度な技術や、築城を支える神道という根本思想からしても、大野城の築城は百済人によって主導されたものではなく、日本主導によってなされたことは明らかです。日本書紀には百済から日本に渡来したという人々の職名や人名が多数登場しますが、これらの人々は本当に、現在の韓国や北朝鮮の朝鮮民族のルーツに当る人々なのか。人名は朝鮮式(中国式)のものではない名前がほとんどですが、朝鮮民族のルーツであるとする百済人が、こういう方式の名前を使っていたことを証明するものがどこかに存在するのでしょうか。当時の百済には、百済人のほかに日本人や中国人も暮らしていたといわれていますので、百済からの渡来人というだけでは、百済人だと断定することはできないのではないか。百済に移住、定住していた日本人も多数存在していたはずです。中国人も同様です。しかも百済は日本の属国的地位にありました。

 わたしがこういう疑問を抱くのは、日本の文化は韓国(朝鮮)によって作られたとされているにもかかわらず、韓国にはそれを証明するような文化文物が存在しないからです。圧倒的に朝鮮が優位にあったと思われている古代においてすら、日本の文化は韓国(朝鮮)が作ったという彼らの主張を裏付けるような証拠物は韓国には現存しません。百済を経由して日本に伝わったという仏教ですら、その内実においては、日本の仏教受容の方が朝鮮よりもはるかに深くて広い。仏教美術も、質量ともに日本が朝鮮を完全に凌駕していることは歴然としています。

 韓国人は国内にある仏教美術が質量ともに乏しいので、日本の神社仏閣にある仏像などが朝鮮半島由来であると根拠なく主張し、時には公然と、あるいは秘かに盗み出したりもしていますが、それらの仏像などが韓国のどこのお寺に安置されていたのか、その由来を明らかにしたことはありません。仏像にしろ大般若経にしろ、信仰の対象であり信仰そのものでもあり、お寺に安置、奉納するものですので、特別の場合を除き、ゆかりのお寺が不明だということはありえませんし、お寺の本尊が不明であるということもありえません。しかし韓国では仏像や般若経は信仰の対象ではなかったのか、安置されていた場所(お寺)は不明であるのが一般的らしい。

 そもそも朝鮮では、寺伝や寺の由来書や仏像の由来書のようなものはほとんど残っておらず、皆無に近い。仏教とは無縁の外国人が仏像や大般若経などを持ち出した場合はお寺からは切り離されて存在するでしょうが、朝鮮でも日本同様、仏教に帰依した証しとしてお寺が建立され、仏像が彫られたはずですので、その由来を記した記録がほとんど残されていないということは、どう考えても不可解です。朝鮮半島では日本同様、中国由来の仏教を受容したわけですから、少なくとも寺の僧侶たちは漢文には習熟していたはずであり、当時の社会にあっては僧侶は最高の知識人であり、支配層の一角をも担っていました。そのお寺で、寺創建の由来、すなわち信仰の由来の記録が残されたお寺が非常に少ないというのは、日本では考えられませんし、日本の仏教のあり方とは根本から異なっています。

 百済、高麗の仏教は日本の仏教の師匠格に当るといわれていながら、日本の寺院より創建が古い寺院は、朝鮮半島には現存していません。現存する寺の創建時期や仏像、仏画などの制作年代が判明している場合も、1300年代、14世紀以降のものばかりです。朝鮮では仏教がもっとも栄えたのは高麗時代とのことですが、936年に新羅を滅ぼし、朝鮮を統一した高麗王朝は、仏教立国で繁栄している日本をモデルに朝鮮にも仏教を普及させようとしたのではないか。現存する寺や仏像などの仏教遺物の年代比較からは、日本が高麗をモデルにしたのではなく、高麗が日本をモデルにしたと見るのが、もっとも矛盾のない歴史認識ではないかと思います。後に述べますが、仏像や仏画などの質的比較でも、朝鮮よりも日本作の方がはるかに優れていることは一目瞭然です。

 寺伝、信仰の由来の記録が皆無に近いということは、朝鮮での仏教は信仰としては受容されなかったのではないかとの疑惑を生じさせると同時に、朝鮮では、中国語の会話はできても、漢文の読み書きが自由自在にできる人材がほとんどいなかったのではないかとの疑惑すら抱かずにはおられません。どこの国や地域であれ、外来文字の移入当初は文字は支配層の独占状態にあり、支配者による統治のツールとして使用されるものですが、百済やその時代の朝鮮半島には、支配層ですら文字(漢文)を使用したという形跡はほとんど残されていません。朝鮮では、12世紀半ば以前の文字記録は皆無に近い。

 936年に朝鮮を統一した高麗王朝は209年後の1145年に「三国史記」を編纂しますが、本書は朝鮮最古の書物です。次いで1277年に「三国遺事」と続きますが、漢字使用でも日本の師匠だとされているにもかかわらず、朝鮮では12世紀、13世紀になってやっと、ぽつりぽつりと超超スローテンポで王朝によって書物、国史が編纂されるようになります。日本では600年代、700年代(7世紀、8世紀)には多数の書物が出版され、それらは今も現存しています。日本とは比較にならないほどの、朝鮮半島での書物出版時期の余りの遅さ、出版頻度の余りの低さには驚かずにはいられません。これでも朝鮮は、日本に漢字を教えた文化先進国といえるのでしょうか。

 韓国朝鮮では、漢文の読み書き能力なしには存在しえなかった僧侶ですら、漢文使用の形跡をほとんど残していない。おそらく朝鮮では、古代百済の頃から現在まで、仏典を読解できる僧侶は非常に少なかったのではないか。李朝時代に僧伝が残された僧侶も少数ながら存在するようですが、朝鮮人僧侶が書き残した仏教書がほとんど存在しないことからも分かるように、朝鮮には仏典を十分に理解した僧侶はほとんどいなかったのではないか。

 李朝末期の朝鮮を旅したイザベラ・バードはお寺もいくつか訪問していますが、僧侶の人柄や寺院や周囲の景色をほめてはいるものの、仏教の教義を理解している僧侶は皆無だと記しています。韓国随一の名刹では、祭壇の上に薬草を広げて乾燥させていたことも記されています。薬草は寺の収入源の一つ。慈悲深い仏様は許してくださるでしょうが、日本人の感覚からすればありえない光景です。

 韓国には、仏典をいかにして韓国人、朝鮮民族の血となり肉となすべく租借したか、それを証す仏教書の類いは、古代から現在に至るも、ほとんど残されていません。にもかかわらず、今現在も韓国人は日本のお寺から大般若経まで盗み出していますが、盗んでもそれらを読解することのできる僧侶は皆無、学者にもいないはず。金になりさえすれば何でも許されるという信仰心皆無の韓国人以外には、これほど罰当たりな盗みはできません。

 2013年に対馬のお寺と神社から韓国人窃盗団によって仏像と大般若経が盗まれ、韓国の裁判所からは日本への返還が禁止された事件は広く知られていますが、翌年の昨年にも対馬の別のお寺から韓国人窃盗団によって仏像と大般若経350巻余りが盗まれました。しかし前年の被害を受けて警戒していたこともあり、早期に気づいた寺の住職からの通報で、警察が出国直前に韓国人窃盗団を逮捕し、盗品は韓国に渡る前に取り返すことはできました。この韓国人窃盗団には韓国人僧侶も含まれています。2010年には、福岡県中間市の小さなお寺から、平安時代以前に作られたという薬師如来像が盗まれたそうですが、未だ見つからないということで、昨年末、檀家の方々が資金を出し合って200万円の懸賞金をつけて、有力な情報の提供を呼びかけているというニュースが報道されていました。この仏像も対馬の仏像も、盗難対策として特別の保管庫を作り、カギをかけていたそうですが、対馬の方はカギがバールのようなもので壊され、福岡の方はガラスが割られて、泥靴の跡まで残されていたという。対馬の場合は危機一髪のところで窃盗団を逮捕しものの、福岡の方は窃盗犯はもとょり仏像の行方は今も不明のまま。靴跡が残されていても犯人が検挙されないとは不可解至極。

 仏教美術は仏への帰依の心、信仰心とは密接不可分なものですが、仏教を信仰として受容したという痕跡がほとんど残されていない朝鮮半島には、優れた仏教美術が乏しいというのはある意味当然ではないかと思われます。

 ただ、九州各地の寺には高麗産の仏像、仏画や梵鐘などが伝来していることは事実のよ

 

 

うです。中には所蔵する日本のお寺によって由来が銘記されたものもありますが、大半が不明のようです。高麗産だといわれている対馬の盗まれた仏像も、韓国の浮石寺の住職が自分の寺のものだと主張していますが、浮石寺にも、韓国のどこにもそれを証する記録は何一つ存在していません。このお寺そのものが、本当に高麗時代に建立されたものなのかどうか、それすら証明できないのではないかとさえ思われます。朝鮮では、文字記録が残されるようになる13世紀以降も、お寺の所蔵であるはずの仏像などの動きについても寺自らの記録はなく、王朝の記録しか残されていません。朝鮮全土の全てを王が独占支配するという高麗、朝鮮王朝の伝統的な統治形態によるものなのか、我々日本人には理解不能です。

 仏教を奨励した高麗王朝を滅ぼした李氏朝鮮王朝は、崇儒排仏路線に大転換したましたので、高麗産の仏像などが日本に流入したとしても不思議はありません。九州各地の寺には高麗産の仏像や鐘などが伝来しているそうですが、高麗や李朝のどこのお寺に安置されていたのか、その由来が明らかな例はほとんど皆無に近い。それらの仏教遺物の由来が明らかにされなければ、それらの仏教遺物を高麗や李朝産だと断定してもいいのか、大いに疑問を感じます。その由来を明らかにすることができるのは、基本的には韓国の仏教関係者や学者です。彼らが自らその由来を明らかにできない場合は、日本にある仏像などを韓国産だと主張すべきではありません。

 しかし日本の文化は韓国が作ったという圧力に屈したのか、昨今の仏教美術においては、高麗の仏教美術が日本の仏教美術のお手本でもあるかのような仰天説も九州地方では力を持っています。高麗時代の仏教美術は14世紀以降が主流です。高麗王朝がやっと文字を使って国史を編纂できるようになって以降のことです。しかし日本ではすでに6世紀から7世紀には、法隆寺に象徴される仏教文化(飛鳥文化)が華麗に花開いています。この時代は奈良の法隆寺のみならず、仏教を国政の中心にすえた聖徳太子の命により、日本各地に国分寺、国分尼寺が建てられました。この仏教をめぐる時代の後先や普及の勢いを考えても、高麗が日本を真似することはありえても、高麗が日本の仏教のお手本になりうるはずはありません。それよりも何よりも、高麗よりも600年も700年も先行している飛鳥時代の日本の仏教美術の方が、高麗のものよりも遥かに洗練されていることは、両者を比較するならば一目瞭然です。法隆寺金銅壁画のような端正で気品に満ちた美しい仏画は、高麗にはもとより、朝鮮半島全土のどこにも存在しないと断言します。しかも高麗よりも600年も700年も古いそれらの日本の仏像や仏画などは、いずれもゆかりのお寺に安置され、今日まで人々に崇敬されてきています。この点も朝鮮とは根本的に異なります。

 こういう重大な違いを無視して、高麗仏教、朝鮮仏教を日本仏教の上位に置き、拝跪してありがたがる学者の方々は、学者と呼ぶべきなのかどうか、疑問に感じざるをえません。日韓両国の歴史家は、高麗が日本をモデルにして仏教奨励策を採用したという事実を直視すべきではないか。

 ところで仏教美術における日韓の歴然たる質的差異は、高麗はもとより、百済以前にもすでに文化的差異として表れています。日本各地の古墳からは埴輪が多数出土しています。紀元前から始まる中国の兵馬俑などの俑に比べると、日本の埴輪は時代が下って弥生時代の3世紀頃からの出土になりますが、朝鮮半島には埴輪の類いの出土例は皆無。朝鮮では王の墓にさえ埴輪や俑に類するものは納めるめられていません。これは死生観の違いによるものというよりも、財力、文化力、技術力などの総合的な国力の違いに由来するものだと思われます。当時の朝鮮半島の王には、埴輪や俑で墓を守り、死後の安寧を請い願うほどの力はなかったのではないかということです。非常に大きな土製造形物を大量に作るには、優れた技をもつ大勢の工人が必要ですが、朝鮮にはそうした人材も不足していたはずです。当然のことながら百済の王の統治能力もさほど高くはなかったはずです。中国から漢字が直伝されているにもかかわらず、文字資料が全く残されていないことも、百済の国家としての統治能力の低さを証明しているのではないか。漢字が使える環境にあるならば、組織的な国家運営には文字の使用は必須、不可欠だと思われますが、その片々さえ残されていないということは、百済では文字を使わずとも可能な程度の、王によるきわめて私的な統治がなされていたとしか考えられません。百済の財力、文化力、技術力も、その私的な統治に収まる程度のものでしかなかったということです。

 以上のように、朝鮮半島では文字使用が日本よりも700年以上も遅れていたこと、文字以外の発掘品や文化的産物の比較からも、現代ではもとより、古代のいついかなる時代においても、朝鮮半島においては日本より優れた文化が生み出された、存在したという事実はなかったということは明白です。この事実を直視するならば、韓国人は日本文化は韓国が作ったとの詐術をもちいて日本文化にパラサイトしたり、日本文化をあたかも韓国の文化であるかのようなホラ話を国内外に吹聴するという、恥知らずな行為はできなくなるはずです。 

 しかし無知は恐ろしい。昨年、韓国では沖縄の文化を紹介する展覧会が開催されていたようで、韓国紙が、沖縄の美しい紅型着物の写真つきでその紹介をしていたのですが、驚いたことには、沖縄の文化も韓国が源流だと紹介していました。朝鮮の衣服は白一色です。染料や顔料が不足していた、つまりは顔料や染料の製造能力が乏しかったからですが、沖縄の美しい色と文様が特徴の紅型とは、共通点は皆無です。にもかかわらず、堂々と沖縄の文化も韓国が作ったと主張する厚顔無恥ぶりには唖然とするばかり。日本の仏教美術からするならば、はるかに後発組である高麗や李朝時代(16世紀から17世紀)のものだという朝鮮の仏画は、いずれも色が濁って不鮮明なものばかりです。遠慮なく言わしていただくならば、画法の巧拙以前に画面が非常に汚い。日本の仏画とは天と地以上の違いがあると言っても過言ではありません。おそらく朝鮮には、日本のような上質の顔料を作る技術や知識がなかったものと思われます。

 しかし問題は韓国の厚顔無恥だけではありません。韓国の主張に積極的に迎合する日本人学者や作家が大勢いることです。一昨年、「利休にたずねよ」という山本兼一原作の小説が映画化されました。わたしは小説も映画も見ていませんが、なんとこの作品では、利休の茶、すなわち日本の茶の湯も高麗(朝鮮)に源流があるとのテイストが加味されていることが、映画のあらすじ紹介で知って、びっくりしました。喫茶文化は中国仏教とともに伝わりましたので、高麗を滅ぼし、崇儒排仏路線をとった李氏朝鮮王朝では喫茶はもとより、お茶の栽培すらされていなかったことが、下村正男氏の著書に書かれていました。下村氏によれば、韓国では1980年代に日本から茶の栽培技術を導入するまでは、お茶の栽培すらなされていなかったという。イザベラ・バードの『朝鮮紀行』にも、朝鮮ではお茶を出す宿屋は皆無であったことが記されています。出るのは水だけ。

 仏教が普及した高麗王朝末期頃には喫茶がなされていた可能性はありますが、高麗は1392年に滅亡していますので、利休の時代とは余りにも離れすぎています。この矛盾をどうクリアしたのかは原作を読んでいないので分かりませんが、著者はこの矛盾をものともせずに、高麗(朝鮮)の高貴な家の出である女性を介して、利休に茶の神髄を伝えるという筋立てにしたらしい。このメロドラマ風利休映画によって、日本の茶の湯も韓国に源流があるらしいというイメージ操作に成功したのかどうかは分かりませんが、それを狙って作られたものであることは言うまでもないでしょう。

 似たような映画が数年前に、NHK主導で作られています。琉球にも宦官(カンガン)制度があったという小説を基にした映画です。琉球(沖縄)は、政治的には中国の册封体制に組込まれていたものの、朝鮮とは異なり宦官制度は導入していません。非人間的な宦官制度を導入したのは本家中国はもとより属国朝鮮でも、権力闘争がそれほど熾烈であったということですが、日本も琉球もこの制度は導入していません。日本と琉球のこの一致は非常に重要で、文化的、すなち心の有り様においては、琉球は日本と同一圏内にあることを意味しています。朝鮮は自国に宦官制度を導入しただけではなく、朝鮮人宦官を中国皇帝に献上しています。

 小説や映画はどれほど荒唐無稽なものを描いても許されますが、こと韓国、中国が絡むと、荒唐無稽な話は即、現在の政治状況と連動してきます。琉球が中韓と完全に一体化していたとのイメージが広がれば、沖縄の文化は韓国が作ったという荒唐無稽な主張にもさらに弾みがつきますし、沖縄は中国領だという中国の一部で出ている主張にも力をあたえかねません。特に、世界に誇るべき独自文化のない韓国はその事実を直視せずに、日本文化の纂脱に血道をあげていますので、カギをこじ開けてまで仏像を盗むことからも分かるように、彼らは手段を選びません。

 最近、相次いで歌舞伎界を代表する著名な役者が次々に亡くなっています。中村勘三郎さん、「利休にたずねよ」にも親子で出演された市川団十郎さん、先日亡くなられた坂東三五郎さん。これはどう考えても偶然だとはいえないはずです。あらゆる分野、領域において、韓国人(在日韓国人も含む)が進出する前には、その分野の日本の著名人が急逝されるか、再起が難しいほどの病に襲われます。その空隙を目がけて韓国人が進出してきます。伝統芸能である歌舞伎の場合は日本人でも進出することは難しい。ましてや外国人にはなおさらです。おそらく役者としてはすぐには進出できないので、韓国人はまずは上演演目に韓国、朝鮮絡みの作品を潜り込ませようと狙っているはずです。「利休にたずねよ」は格好の作品だったと思われますが、映画が不入りで、団十郎さんの追悼上映会も行なわれませんでしたので、歌舞伎界への侵蝕の企みは頓挫したものと思われます。しかし彼らは決して諦めず、次の策を練っているはずです。新作歌舞伎には要注意です。

 外務省は日韓交流基金を使って、日韓の映画、演劇、作家、詩人などの交流事業を毎年 延々と続けてきましたが、この事業は日本の税金を使って反日日本人を育成しつづけてきただけだと言っても過言ではないはずです。日韓交流事業に参加する日本人は、誰もが韓国側の反日主張を全面的に受け入れます。韓国の主張に異を唱えるような人物はこれらの事業には参加できません。この交流事業の一環で何か作品を作る際は、たとえ日本人が主体になって制作しても、必ず韓国人の意を汲んだ内容にならざるをえません。そうでなければ日韓交流にはならないからです。この基金を使った演劇交流を介して、韓国人が日本の歌舞伎界攻略を画策しないかと心配しております。歌舞伎界の看板スターの相次ぐ急逝は、その工作の第一歩だと思われます。外務省は、韓国だけに特化した交流事業は即刻中止すべきです。韓国にしろ、中国にしろ、彼らの不当な日本批判に真っ向から反論せずに、ただひたすら文化交流だけを延々と続けるのは愚の骨頂です。

 日本文化は韓国が作ったという捏造歴史がさらに浸透しつづけるならば、韓国人による日本侵蝕はより容易になり、その工作速度もさらに加速されるはずです。この無気味な攻撃から日本を守るためには、古代にまで遡る韓国人の歴史捏造を、事実に基づいて徹底的に粉砕することです。これこそが、今、日本が直面する喫緊の課題です。

 前々回、葦の葉通信1号で元冦について取上げましたが、有名な資料を忘れていました。鎌倉時代に作られた蒙古襲来絵詞です。この絵巻も昔何かの展覧会で現物を見たことがありますが、開いて展示されていたのは長い絵巻の一部だけでした。合戦の絵を背景にした竹崎季長が登場する、よく知られた有名な場面だったように記憶してますが、残虐な場面の展示はありませんでした。現物を見るとこの絵巻はかなり長いので、この絵巻のどこかに目を背けたくなるような残虐な場面が描かれているのか、あるいはそれほど残虐な場面はどこにも描かれていないのかは、一般人には分かりません。

 ところが先日、福岡県立美術館に立ち寄った際、思いがけないものを目にしました。元冦を油絵で描いた明治時代の画家矢田一嘯(ヤタイッショウ)展の図録です。10年ほど前の開催ですが、こんな展覧会が開かれていたとは知りませんでした。同じ題材を描いているだけに、西洋絵画の技法によって描かれた油絵の写実性は、蒙古襲来絵図のようなやまと絵的な描法とは根本的に異なっていることに改めて気づかされました。矢田の絵には、蒙古襲来の残虐性が生々しく描出されています。この図録がきっかけで、何と、福岡県庁の近くに元冦記念館があることも知りました。この館内に矢田の元冦絵も展示されているそうですが、未だ訪問していません。さらに、元冦は日本側の無礼な対応がそもそもの原因であるという反日解釈は、NHKが「その時歴史は動いた」という番組の元冦特集で、日本中に広報していたこともつい先ほどネットで知ったばかりです。公共放送が史実を無視した反日番組を放送するとは、日本はなんという国なのかと、嘆かずにはおられません。こうした事実に基づかない反日歴史の凶悪ウイルスから身を守るための、格好のサイトを見つけました。運営者名は不明ですが、「きままに歴史資料集」というサイトです。元冦についても文献を示しながら、歴史の事実を明らかにされています。拙稿と合わせてお読みいただければと思います。

 ところで弊社刊の平川祐弘著『日本をいかに説明するか』に、日本海と東海をめぐる面白いエッセーが収録されています。韓国人は日本海を東海に変えよと主張しつづけ、アメリカの教科書では東海表記に変えられてしまったそうですが、実はもともとは中国が日本海を東海と名付けたものだという。韓国は現在も中国の属国らしく、日本海の呼称を中国流に変更させることに狂奔しているわけです。しかも驚いたことには、日本海は日本が名付けたものではなく、日本では江戸時代後期の頃の1815年、ロシアの航海者クルーゼンシテルン作の海図による万国共通の通称だったという。著者の平川氏が同僚の東大の地理の教授から聞いた話として紹介しています。韓国の地理の専門家は、東海と日本海をめぐる歴史的な事実については知らないようですが、日本海は日本帝国主義者が命名したものであり、侵略の象徴だという、韓国の言い分を丸のみしたアメリカの歴史専門家も知らなかったらしい。アメリカでも専門家の質の低下が進行中のようです。

 

3スタップ細胞捏造事件

 日本でも学術分野での質の低下は歴史分野のみならず、医化学(科学)分野にも広がっていることは、日々の報道が示すとおりですが、それを象徴する事件はやはりスタップ細胞捏造事件でしょう。この問題についてはいつかテーマとして取上げたいと思いつつ、時間が経ってしまいましたが、この事件の最大の問題は、なぜ小保方氏のような、余りにも低レベルな人物が細胞研究のリーダとなり、超巨額の税金を浪費することになったのかということではないかと思います。

 小保方氏は細胞研究の基礎の基礎すら学習していなかったことは、理研の検証でも明らかになっていますが、小保方氏の研究には巨額の税金が投入されています。おそらく理研そのものにも一般大学とは比較にならないほどの予算が投じられているはずです。小保方氏のために研究室の壁がピンクに塗り替えられたり、小保方氏には給与以外にホテル暮しをする資金までもが提供されています。小保方氏のホテル代だけでも年間500万円もが支出されていたという記事が週刊誌に出ていましたが、信じられない思いです。全く意味のない研究費の異常な浪費です。研究費本体の総額は報道されていませんが、おそらく小保方研究だけでも、一般の一大学の研究費の数十倍はあったのではないかと思います。このスタップ細胞事件の検証だけでも9000万円近い税金が浪費されたことが毎日新聞WEB版に出ていましたが、理研がもっと早く自らの非を認めて総括していたならば、検証費用もこの数百分の一ぐらいで収まったはずです。潤沢な資金で浪費に馴れて麻痺していたのか、理研は検証を延々と引き延ばし、9000万円近い税金をドブに棄てて平然としています。理研に優遇的に配分される予算の巨額さが十二分に推測される金額です。

 わたしはこの事件で理研が全国に3ケ所(大阪、神戸、東京)もあることを初めて知り、驚いています。日経WEB版の特集記事によれば、時の政権が、土木関連の公共事業に代わって科学利権として次々と増設した結果だとのこと。科学なら国民の反発もないとの理由かららしい。3ケ所もあれば、理研に配分される予算が膨脹するのも当然ですが、理事長一人ではもとより、理事会ですら全理研の状況を具体的に把握することは不可能でしょう。事件発覚当時、理研には1000ものプロジェクトが進行中だったことも日経の特集記事に出ていましたが、1000ものプロジェクトが進行中であるということからも、理研に投じられている予算が破格的であることが分かります。スタップ細胞はその中でも最優良の研究だったと思われますが、それすらが、基礎的知識すら持たない小保方リーダが先導したがゆえに発生した捏造研究であったわけです。

OA入試で早稲田に入った小保方氏は、基礎的勉強もろくにせずにハーバード大学の研究員になって箔をつけ、理研に迎えられたのでしょうが、ハーバード大も盲目的に信奉するような世界的な権威ではなくなっていることをも思い知らされた事件でした。小保方氏を指導した(唆した)というバカンティ教授は、同大を休職して姿をくらましています。アメリカではスタップ細胞に勝るとも劣らないほどの捏造研究が行なわれいるばかりか、偽研究で投資を募る研究詐欺も横行し、それを禁止する法律までできているほどです。アメリカは玉石混交の振り幅が異常に大きい。

 理研はアメリカ流玉石の「石」の方をつかまされたわけですが、理研の対応の魯鈍さには呆れ果てるばかりです。理事長の新旧交代がありましたが、理事長の交代ぐらいで理研の改革が進むとも思われません。理研改革の第一歩は、3ケ所もある理研を一ケ所に統合してスリム化し、ムダな予算を削るべきではないか。そして理研に配分していた予算をもっと一般大学に回すべきです。理研の1000のプロジェクトのうち、モノになったのはiPS細胞を使った網膜移植ぐらいではないか。研究成果は短期で求めるものではありませんが、学生を教育する負担もない理研ならば、もっと多彩な研究をしなければ、巨額な予算に見合わないのではないか。理研のスーパーコンピュータ京も成果といえば成果ですが、一般マスコミは全く報道していませんが、世界の潮流はスーパーコンピュータよりも量子コンピュータに目が向けれています。アメリカのNASAIT企業は、日本では際物扱いを受けていた日本人学者が開発した量子コンピュータ理論をもとに、量子コンピュータを作成し、すでに稼動を始めているという。カナダでは、別の理論による量子コンピュータが商品化されているという。

 量子コンピュータは従来のコンピュータよりも段違いに計算速度が速いだけではなく、従来のコンピュータではどれほど高性能であっても対象物は疑似的にしか再現できなかったのに対し、量子コンピュータでは対象物をほとんど誤差なくほぼリアルに再現することが可能だという。いずれも日経のIT関連雑誌で紹介されていたものですが、例えば津波予測をする場合、高性能の京を使っても近似的にしか再現できないそうですが、量子コンピュータならば、ほとんど誤差なく再現できるということです。人工津波で攻撃する際もピンポイントで攻撃できるのではないか。これはある意味驚異的な威力をもった新種のコンピュータですが、日本の民間企業でもさらに新種のコンピュータの研究開発が進んでおり、この分野でも日本は世界最先端を走っています。

 ところが福岡市の高島市長は理研を福岡に誘致し、スーパーコンピュータの研究拠点を作ろうと画策しています。高島市長は世界の潮流を知らないばかりか、理研をさらに膨脹させようとしているわけです。愚の骨頂という外ありません。意味のない税金のムダ使いをするなと言いたい。そんな予算があれば、九州各地の一般大学に配分せよ。政治家や官僚や専門家が審査して研究費を配分する手法が、小保方事件を誘発したことをとくと反省すべきです。直接の責任は理研にあるとはいえ、トップの目が届かない組織を作り、巨額の資金を投じ、ムダをムダとは思わない研究土壌を作り、研究者をたった5年で選別する仕組みを導入した政治家こそ最大の責任を問われるべきではないか。この理研に巨額の研究費を投じる決定をしたのは誰なのか。いかなる基準により、理研への予算を決定したのか。予算配分に関わった政治家、官僚、専門家は全員名乗りを挙げて、自らの責任を明らかにすべきではないか。

 しかし安倍政権はこの事件は政治家には全く関係ないとでも考えているのか、一般大学でもさらに選別強化を進める方針を明らかにしました。日本の学術研究を窒息させる愚策です。今でも大学の先生たちは、研究費獲得のための書類作りに追われて、研究に割ける時間が激減しているそうです。その上、論文数が重大な評価ポイントになるとのことで、フィールドワークなどが疎かになっているとのこと。昨今火山研究者が激減していることが、御岳山噴火で明らかになりましたが、実地に火山の現場で観察していたのでは論文が書けず、研究費がもらえなくなるので、火山の現場に出向く研究者が激減していると、東大火山研究者が朝日のインタビュー記事で語っていました。ノーベル賞を受賞した青色ダイオードも、その重要性に着目していたのはノーベル賞を受賞した3氏ぐらいで、学会の発表会でも出席者はこの3氏だけだっと中村修二氏が語っていました。学術研究では、論文数や引用数という量だけで判断することがどれほど無意味であるかを語って余りあるエピソードです。アメリカでは論文引用数を増やすために、引用を強要する工作までなされていることが新聞に報道されていましたが、数値化することの愚かさ、無意味さに世界はいい加減に気づくべきではないか。

 しかし中国が論文発表数や特許申請数で世界トップの伸びを続けるとの報道がなされています。その一方、日本の研究の遅れを指摘する報道が賑々しくなされていますが、中国の伸長の実態については全く報道されていません。理研は中国の北京大学と全面提携を結んでいますし、東大も最近、北京大学と全面提携を結びました。北京大の学者や学生は、理研や東大のあらゆる分野の研究に直接アクセスすることが可能になっています。海外勢との提携が強制されていますので、他の大学でも同様の事例が広がっているはずです。

 完璧を期す日本の学者が研究途上であるとして発表していない研究でも、中国人は遠慮

 

 

会釈なく盗用して世界に向けて発表する可能性は非常に大です。特許でも同様です。中国の論文数や特許申請数の増加は、日本をはじめ欧米の研究所や大学での研究成果を取り込んだ結果であるのは明らかですが、特に脇の甘い日本人研究者は、盗作者たちの格好の標的になっているのではないか。しかも日本人は盗まれてもその不正とこととん闘うことはしない。しかも大学ならば、世間には未公表の研究でも学生たちは知っていますので、盗用は発覚しやすいですが、学生のいない理研のような研究機関では、未公開研究の内容は、外部にはひろがりにくい。しかし近年は、大学よりも理研や××機構などの学生のいない研究機関を優遇する政策が進んでいます。盗作者にとっては願ってもない環境が整えられつつあります。

 しかし中国の研究成果は量的には激増していても、世界的に注目を浴びるような研究成果は皆無であることも歴然たる事実です。中国が研究成果を量的にしかアピールできずにいるのは、中国人が自ら創造的に研究した結果ではないことを証明しているのではないかと思われます。海外勢を受入れれば受け入れるほど、OECD基準では大学の評価は上がるわけですが、この評価システムは日本などの先進国の教育環境を破壊する一方、中国や韓国などの後進国にとっては、労せずして最先端の研究成果をタダで手にすることのできる仕組みになっています。OECDはそれを狙ってこの仕組みで世界の大学を監視しているのでしょうが、日本政府はこんな仕組みは無視して自国の教育政策を考えるべきです。評価基準そのものがきわめて非学問的だからです。

 いかなる分野であれ、日中韓の提携は言葉としては美しい。しかしその実態は、日本による中国、韓国への無償奉仕以外の何物でもありません。無償奉仕なしの提携もありうるのでしょうが、日本の政治家にはその能力が根本的に欠けています。それどころか皆さん、喜々として中韓奉仕をなさいます。安倍総理がこの悪習をいかにして断ち切ってくれるのか、期待をこめて注視しています。

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