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歴史の纂奪―百済から通信史 九国博の反日展示 昨年11月末に、太宰府にある九州国立博物館(九国博)で開催されていた「台北國立故宮博物院」展に行ったのですが、付属展として同時開催されていた、アジアの海がつなぐ交流展(正式名称は忘れました)で、恐るべき反日捏造展示に遭遇し、大変な衝撃を受けています。よりにもよって国立の博物館で、しかも歴史の専門家が運営しているはずの日本の博物館で、堂々と捏造による反日展示がなされていることには、激しい衝撃を受けずにはおられません。現在の日本の歴史研究の異常なまでのレベル低下と、それと軌を一にした反日分子の異常繁殖が、国立博物館にまで及んでいることを如実に示しています。 その反日展示とは、朝鮮通信使の一行を描いた絵に付された解説文です。一字一句までは覚えていませんが、朝鮮通信使は鎖国中の日本に海外の先進文化をもたらす重要な働きをしたとして、日本の文化発展に貢献したという趣旨の、韓国の主張そのままの解説がなされていました。そしてもう一つ、元冦資料も展示されていたのですが、この展示でも反日解説がなされていました。その解説によれば、元冦は、元皇帝が日本との友好を求めて日本に国書を送ったにもかかわらず、日本が非礼な態度をとたことが発端であると、全て非は日本にありとする、未だかつて見たことも聞いたこともないような歴史的事実を無視した解説がなされていました。 立続けに反日展示を見せられ、なぜ九国博はここまで反日展示をするのかと、大変な衝撃を受け、展示全体を見る気分が削がれてしまったほどでした。小中高でも反日歴史教育がなされていますが、博物館まで使って、反日歴史教育を推進しようということらしい。推進主体は誰なのか。反日推進主体を特定する前に、事実の確認をする必要があります。なぜ反日だと認定したのかを明らかにする必要があるからです。 まずは朝鮮通信使について。目下、対馬をはじめ朝鮮通信使の再現イベントが盛んに行なわれていますが、これらのイベントも朝鮮通信使が日本に先進文化を紹介するために、わざわざ海を渡って来日したとの趣旨のもとで実施されており、世界遺産登録の準備さえ進められています。韓国が朝鮮通信使を喧伝する狙いは、日本の文化は韓国が作ったという荒唐無稽の誇大妄想を国内外にアピールするためであることは言うまでもありませんが、今の日本には、韓国のこの主張に無抵抗に同調する流れが急加速化しています。そしてこの時流に抗して、冷静に歴史的事実を公然と明らかにする専門家は非常に少ない。 日本の技術を学ぶ通信使 その希少な朝鮮研究家のお一人である下條正男氏は、その著書『日韓・歴史克服への道』(展転社刊)において、朝鮮通信使の実態は、世上流布しているものとは真逆であることを、史実を基に明らかにされています。下條氏は十数年間、韓国の大学などで教鞭を執られた後、拓殖大学国際開発研究所教授になられた方で、韓国の歴史書はもとより、中国、日本の歴史書についても原典から読み込んでおられる、今時、希少な歴史家です。その下條氏によれば、朝鮮通信使は先進の技術を日本に伝えるどころか、日本の技術を学ぶことが目的で来朝したという。 初期の朝鮮通信使は室町時代から始まっていますが、下條氏によると、室町時代前期の1429年に来日した朴端生は、「造車の法(水車の作り方)、鍍金(銀メッキ)、造紙(紙漉き)、朱紅、軽粉等の製造法や日本の貨幣経済の実態や店鋪商業の発展についても」精査した結果を、時の李朝王の世宗に報告書を提出したという。日本の先進技術を導入せよとの、第4代朝鮮国王世宗(1397年ー1450年)の命令を受けての復命書であったわけです。つい先頃、日本の和紙が世界無形文化遺産に登録されましたが、朝鮮王朝は15世紀初頭にすでに、日本の和紙は軽くて精緻であるとそのすばらしさを認め、通信使にその製法を学んで来いと命じたのでした。ハングルを創設し、韓国では名君との誉れの高い世宗は、日本のすぐれた技術の数々にも目を付け、自国への導入を考えていたのでした。 しかしいずれの技術も社会システムも、朝鮮人独力では導入することは不可能であったことはその後の歴史が証明しています。現在の韓国人も独力では先進技術を導入することはできずに、日本に丸ごとの技術移転を求め続けてきましたが、大昔からその関係は変わっていないということです。江戸時代に入って、将軍の代替りの度に朝鮮通信使は来日していますが、水車の作り方導入への意欲だけはその後も衰えず、金仁謙著『日東壮遊歌』の註によると、江戸に入って再開した1607年の第一次通信使の記録を手はじめに、その後の通信使の記録にも日本で見た水車の仕組みについては、繰り返し記録されているという。中には、絵入りで解説した記録まで残されているという。 第11次(1763ー1764年)の通信使の書記であった金仁謙も、来日見聞録『日東壮遊歌』(平凡社/東洋文庫)では、我が国にも欲しいと書き添えながら、往路(大坂)と帰路(箱根)で観察した水車の仕組みを詳細に記録しています。水車は水田への導水はもとより、脱穀、製粉、製糸等、電力が発明されまでは最大の機械的動力源となったものですが、金仁謙は往路の大坂では、川から城内に水を送る揚水機としての水車を観察し、帰路の箱根では脱穀機として働く水車を詳細に観察し、いずれも感嘆しながら記録に留めています。しかし朝鮮人は仕組みをどれほど詳しく図解入りで解説してもらっても、仕組みを知っただけでは水車を製造することができませんでした。これは今の韓国人にも変わらず受け継がれている特性ですが、前書註によれば、朝鮮通信使が廃止された後も李氏朝鮮政府は、何とかして水車の製造法を学ぼうと、1881年にはそのための使節団を日本に送ったという。しかしここまでしても、朝鮮では独力で水車すら作ることができなかったというのが実態でした。 日本では、朴端生が来日した1429年よりも100年以上前の1330年から1331年に書かれた『徒然草』には、農民が高性能の水車を作ったことが紹介されています。朝鮮では、水車はもとより、木材を使って車輪をつくることすらできなかったという。日本では、平安時代には漆塗りの豪華な牛車までが作られ、使われています。日朝の技術の差は、大昔から現在に至るまで、非常に大きかったというのが偽らざる現実です。朝鮮においては、日本伝来の技術はもとより、近代的な技術や社会システムの導入は、日本の朝鮮統治によって初めて可能になったのです。この歴然たる事実を無視して、朝鮮通信使が先進文化を日本にもたらしとして、日本人が朝鮮通信使を崇め、喜々としてこのインベントに参加するのは愚の極みだという外はありません。 しかし朝鮮通信使は波涛を越えて、日本との友好のために来日したではないかと、その友好精神を高く評価する声もあります。日朝友好も通信使イベントの謳い文句の一つになっていますが、朝鮮通信使のみならず、当時の朝鮮人は日本を禽獣と呼んで蔑視していたというのが、事実です。この日本蔑視は、劣等感とないまぜになって今なお韓国人の心性に深く根を張っています。下条正男氏は、朝鮮の日本観を『日韓・歴史克服への道』でその由来を解剖しつつ、詳細に論じておられますが、それによると当時の朝鮮では、中国の册封体制に服属しているか否かが、対外的な評価の唯一絶対の基準だったという。中国の元号を使い、中国が許可した地神だけを祭り、中国の諸侯の一つとして中国に服属していた朝鮮は、独立国ではないその地位を卑下するどころか、小中華と自ら称し、中国の偏頗なコピーにしかすぎない自国朝鮮を、虎の威を借りる狐よろしく誇大評価し、中国の册封体制からはみ出していた日本を蔑視していたという。 朝鮮が古来「東方礼儀の邦」と呼ばれてきたのも、中国から見た評価にしかすぎません。中国に礼を尽して服属した朝鮮に対して、中国皇帝が、よしよし従順な奴よのうと、朝鮮を褒めた言葉であったわけですが、現在の韓国においてさえ、自国を「東方礼儀の邦」と自慢げに喧伝しています。韓国は、中国の忠実な属国であった自国を自ら喧伝していることになるわけですが、我々日本人には全く理解不能です。 日本では7世紀に入ると、中国の律令制度を導入し、国家体制を整えていきますが、下條氏によれば、日本は自国の元号を使い、朝鮮にはもとより、中国にもない神祇令を制定し、日本古来の神道を国家祭祀に組込みこんだという。神道を軸に置いた日本の律令は、天皇はその一身において天神、地神の徳を具現化し、天皇自身が天神、地神の神の意思を伝える媒体機能を果たしたという。大ジョウ祭や鎮魂祭などの主要な祭祀は、戦後の新憲法下の象徴天皇制にも継承されているようですが、古代においては、祭祀は政治の要中の要です。日本の律令ではその要に日本の在来の神道を組み入んだという下條氏の指摘には、心底驚かされています。大昔の中高生時代に、日本は中国の律令制度を導入したと習ったままの知識しかなかったわたしには、衝撃ですらありました。下條氏の天皇論は日本論としても非常に刺激的ですが、今回は長くなりますので、中朝との制度上の比較についてのみ紹介します。 一般的には、日本文化の独自性が開花するのは中国との交流が途絶えた平安時代だと言われていますが、日本版律令の創設は、平安時代より数百年前の、中国や朝鮮との交流が盛んであった頃からすでに日本では、独自の文化を構築してきていたことが、文献的にも十二分に証明されたことを意味しています。古代においては政治と文化は未分化状態にありましたので、政治すなわち祭り事であり、文化の中核でもあったわけですから、国の誕生から現在まで、中国の模倣以下の域を越えることのできなかった朝鮮とは異なり、日本では古来より中国の制度や文物を導入しながらも、それを換骨奪胎する力を有し、日本独自の文化や社会を生み出きていたことは明らかです。 しかし中国を絶対視する朝鮮の基準からするならば、中国の文化を取り入れながらも、独自の文化や言語や社会体制を築いていていた日本は、はみ出し者以外の何物でもなく、人間以 下の野蛮な獣、禽獣でしかありませんでした。『日東壮遊歌』にも、倭人(日本人)を禽獣と蔑称する場面が何度も出てきます。しかも通信使の日本蔑視は、日朝の通交を支えてきた対馬藩の人々に対して、もっとも露骨に表れています。対馬の女性を侮蔑的に描写した場面も出てきますが、その概略を紹介するのもはばかれるほどに、ひどい侮蔑的表現がなされています。対馬に滞在中は、対馬藩は通信使に対して食糧を提供する取り決めになっていたそうですが、なかなか食糧が届かないことに、通信使らは立腹しています。もっとも密接に接触する関係にあるだけに、対馬藩にとっても通信使にとっても、両者の関係は、和やかな友好的雰囲気とはほど遠いものにならざるをえないのも、ある意味当然だったのかもしれません。 しかしそもそも通信使そのものが、新将軍に拝謁して祝意を表すことが最大の仕事であり、日本を蔑視する朝鮮にとっては、本当はやりたくはなかったはずです。儒者として非常にプライドの高い『日東壮遊歌』の著者金仁謙は、四拝して日本の将軍に拝謁するのは屈辱的だと言って欠席します。しかし、著者以外は国命に背くわけにはいかないといって出かけますが、出かける前に上官は著者に向かって、「帰国してからお前だけがいい顔するなよ」と嫌味を言っています。つまり通信使の誰もが、内心では屈辱的だと思っていたということです。 将軍への拝謁では、通信使の上官は、将軍が高座に座る大広間に入りますが、百数十名の中官は、庭に座っての拝謁です。金仁謙が屈辱的だというのも無理もありませんが、日本における朝鮮朝鮮使の位置を象徴する場面です。 しかも来日するには、難破の危険に絶えず晒され、命がけの航海に耐えなければなりません。遭難死した通信使も珍しくはありません。航海の危険を理由に通信使を辞退する人もいたほどです。金仁謙たちも、何度も難破の危機に見舞われていますが、奇跡的に難を逃れて、日本上陸を果たしています。しかし上陸を果たしたものの、過酷な航海に耐え切れず命を落としたり、発狂したりした随員が出たことも記録されています。 朝鮮通信使はなぜ、これほど危険で過酷な航海を繰り返し、屈辱に耐え、禽獣と蔑視する日本にやってくるのか。朝鮮にとっては、随員の生命やプライドを犠牲にしてでも来日すれば、犠牲を補って余りある収穫物を得ることができたからです。それ以外の理由はあるでしょうか。通信使が手にした収穫物とは、日本の先進文化、先進文明を観察すること(学んで導入することは不可能でしたので、いつも観察するだけでしたが。)の外に、先進的で豊かな日本の様々な産物を大量に土産物として持って帰ること。この土産物の中には、各地で交流した日本人から送られた物も大量に含まれていますが、無断で盗んだ物も多数含まれています。通信使が接待に使われた物品を盗むことは、日本ではよく知られていますが、日本側は公には咎めたことはなく、黙認していたという。 ところが、金仁謙たちの第11次通信使に随行した対馬藩の通詞(ツウジー通訳)が、通信使に面と向かって彼らの窃盗壁を口にしてしまいました。事の起こりは通信使の一人が鏡をなくしたと言って、通詞に向かって、お前が盗んだのだろうと言って鞭打ったことから、殺人事件にまで発展します。邦訳された金仁謙の記録には、以上の顛末は書かれていますが、実はこの時、通信使は「日本人は盗みがうまい」と言って通詞に嫌疑をかけたことから、通詞は通信使に向かって、「朝鮮人はご馳走に出した食器などまで持ち出すではないか」と言い返したという。ずばり痛い所をさされた通信使は腹を立て、衆人監視の前で、通詞を何度も鞭打ったというのが、実際の事の成行きでした。通詞はこの屈辱に耐えかねて、その夜、この通信使の寝所に忍び込んで殺害するという大事件にまで発展したという。通詞が鏡を盗んだとも思えませんが、金仁謙もその著書の中で、何度も対馬人に対して通信使のものを盗んだと様々な嫌疑をかけたり、対馬人に対する嫌悪を記しています。 日本の豊かさに驚嘆する通信使 しかし金仁謙は、対馬では散々悪口を書き綴っていましたが、旅程が進むにつれ、朝鮮とは比較にならないほどの日本の豊かさを目の当たりにし、賛嘆、感嘆の言葉が感動的に綴れるようになります。朝鮮にとって日本は、別世界のような豊かさを誇っていたことは、他の通信使の記録にも正直に記録されているという。 金仁謙は、大坂城へと向かう途中で、迎えにきた11隻の倭船に乗り換える際、その金で装飾された倭船の豪華さに驚いています。「二つの楼閣を持った」「その金の倭船の造りとはいえば、内も外も漆塗りで、影が映るほど輝いており、金泥を擁してきらびやか、」「その豪華絢爛、万古に例を見ない見事さである。」等々と、倭船の豪華絢爛さの描写はさらに続きますが、余りにも贅を凝らしたこの船に乗ることは、「臣下の身では僭越だと思い、」著者は辞退したほどです。しかし金仁謙も含めて、江戸へ向かう通信使一行は、豪華な11隻の倭船に分乗して淀川を上ります。 道中、太鼓橋の下をくぐりますが、二層閣の金倭船が障害もなくくぐり抜ける、中空に浮いたように見えるその橋の造りの見事さや装飾の華麗さにも感嘆しつつ、その造りを詳細に書き留めています。 大坂に入ると、町の賑わいは、我がソウルの万倍も上であると驚いています。それどころか、「かの中原(チュウゲンー中国)の壮麗さもこの地には及ばない」と、大坂の町の富み栄えた殷賑ぶりを、驚嘆しつつ書き留めています。が、その一方で、「穢れた愚かな血を持つ、獣のような人間が」「このように富み栄えているが、知らぬは天ばかり 嘆くべし、恨むべし」との呪詛の言葉も書き加えています。 京都でも同様に壮麗さに驚嘆していますが、「惜しんで余りあることは」「この豊かな金城湯池が 倭人の所有するところとなり 帝(ミカド)だ皇(スメラ)だと称し 子々孫々に伝えられていることである この犬にも等しい輩を 皆ことごとく掃討し 四百里六十州(日本全土の意)を 朝鮮の国土とし 朝鮮王の徳をもって 礼節の國にしたいものだ」とまで書き記しています。当時の朝鮮人も現在の韓国人も、なぜ日朝、日韓の経済格差が大きいのか、その原因を考えずに、根拠のない恨みを吐き出し、日本乗っ取りという実現不可能な夢想まで抱くところまで同じ、全く変わっていません。 この後も金仁謙は、江戸に上る道中で目にした各地の町の壮麗さ、清潔さ、美しさへの驚嘆を書き連ねていきますが、通りで目にした日本女性の美しさにも驚嘆し、楊貴妃でさえ色褪せてしまうだろうとの賛辞まで書き残しています。船から馬に乗り換える時、日本側が用意した馬には、通信使用の馬にはもとより、奴僕用の馬にも全て金の鞍が乗せられていることにも著者は驚いています。家の中、調度など、至るところに金が使われていることも記録されており、江戸時代の日本はこれほど金だらけだったのかと、日本人が読んでも驚かずにはいられませんが、もしも日本人が同じ旅程を記録したとしても、金細工に驚き、記録することははるかに少なかったのではないかと思われます。 通信使と漢詩 以上はごく一部しか紹介していませんが、母国朝鮮とは比較にならないほどに豊かな日本に驚嘆している通信使の記録を読んでいると、日朝いずれが先進国であったかは視覚的にも明らかです。通信使が同じ土俵で日本人と勝負することが出来たのは、漢詩を介した交流だけでした。通信使は出発に先立ち、ソウルの王宮に参上し、王から直々に詩作の能力を試されます。来日記録を残した著者の金仁謙は、国王から、一行の書記の中では最も詩作に優れていると認定されたことが、著書の冒頭付近に記されています。 我々日本人にとっては、詩作の能力までをも国王が直々に審査するということには、非常な違和感を覚えずにはいられません。朝鮮では漢詩の分野でも国王が最高権威者であったことになりますが、これでは、国王を超える漢詩人の存在はありえず、漢詩という文芸分野が国政とは独立した独自の世界を築くことなどありえなかったはずです。事実、日本に派遣する通信使の詩作能力を試したのは、日本人に遅れを取らずに漢詩での応酬ができるかどうかが大問題だったからです。朝鮮は中国の科挙制度を取り入れていましたが、科挙の試験の中では漢詩は最も重要な科目の一つであったとのこと。科挙に合格して役人になった両班(ヤンパン)の中から、詩作に最も優れた3名が、通信使に随行する書記として選ばれたそうですが、その中でも金仁謙が最も優秀であたとのことでした。 通信使派遣における書記とは、ただ記録を残すという一般的な職名ではなく、日本人儒者との漢詩の応酬を担当する漢詩専門官を指す職名であったという。朝鮮側が通信使派遣に際して、いかに日本人との漢詩の応酬に力を入れていたか分かります。事実、金仁謙も日本人と漢詩の応酬の際には、自分の詩作力によって、我が国王の威光を示さんと戦意をあらわにしたりもしています。朝鮮にとって、日本と同じ土俵で勝負することのできる唯一の分野が漢詩だったからです。国王が直々に漢詩人の力量を試したのもそのためでした。 つまり朝鮮では漢詩は、漢詩を作ったり、詠んで楽しむことそのものが目的ではなく、科挙に合格するための必須科目であり、国威発揚、外交交渉上の主要な政治的手段でしかなかったわけです。朝鮮では、国王直々の指導で詩作力を高めようとしていたにもかかわらず、著名な軍人などの漢詩は単首としては残されているようですが、後世に名を残すような漢詩集や漢詩人はほとんどいないはずです。他の芸術分野においても同様です。朝鮮では政治、経済分野のみならず、学問、芸術分野などあらゆる領域が王朝によって独占され、独裁されており、王朝が認めなければ、いかなる分野においてもその活動は認められなかったからです。この朝鮮王朝の体制を支えたのは朱子学であったことはよく知られていますが、朱子学の国政に及ぼした影響は、同じく朱子学を導入した日本とは大きく異なっていたという。 下條正男氏によると、李氏朝鮮では朱子学のみが国体の最高原理として認められ、仏教などは激しく弾圧されたという。しかも朱子学の絶対性は政治分野のみならず学問、芸術などあらゆる分野にまで及んだという。この極端な視野狭窄症に閉じ込められていた李氏朝鮮下にも、これを憂うる知識人も少数ながら存在したらしく、中国には朱子学以外にも学ぶべきものはもっと色々あると指摘した人もあったという。しかしこういうまっとうな意見は一顧だにされず、それどころか、本家中国で朱子学の研究が弱まると、朝鮮の朱子学研究は中国以上に精緻であると、属国朝鮮の、宗主国中国に対する優位性を誇示する道具にも使われたという。針の先をさらに尖らせるような、ほとんど意味のない些末な研究を進めることで、永遠に劣位から脱することのできない朝鮮の地位を、僅かでも押し上げようとしたのかもしれませんが、まったく地位を上げるには何の力にもならなかったことは言うまでもありません。 通信使の漢詩力もおそらく似たような役割を負わされ、似たような成果しか上げられなかったものと思われます。通信使は日本各地で、その土地土地の儒者たちや文人たちに漢詩の唱和や添削を求められ、その求めに応じるために多忙な時間を過ごしています。こと漢詩に関して見ていると、朝鮮は本家中国の漢詩漢文の最大の直輸入元であり、鎖国下の日本の文人にとっては、彼ら通信使を中国の代替役とみなして、ありがたがっていたことは事実のようです。日本の文人たちは、非常に高価な金品を持参して、通信使との漢詩の応酬を求めています。金仁謙はそれらの金品は全て受け取りを拒否したそうですが、金品を受取るのが一般的であったという。しかし朝鮮側が日本に対して、差し出したものは、朝鮮人参などの特産品などを除けば、新将軍就任への祝意を記した国書と、漢詩の応酬以外にはありません。将軍への祝意は朝鮮にとっては屈辱的な行為であったはずですが、漢詩の応酬は、日本と唯一対等になれる、時には優位になれる唯一の領域であったと思われます。 鎖国を敷く徳川幕府が、朝鮮通信使の来朝のみを認めたのも、朝鮮は日本にとっては全く脅威ではなかったからではないか。事実、朝鮮は、将軍の代替りごとに、祝意を表すために、命をかけて波涛を超えて、1年もの時間をかけて、日本の江戸までの往復を12回も繰り返しています。徳川幕府は、その文物は輸入したいが、日本が属国にされる危険性のある中国やオランダなどの大国との交通は、出島などのごく限られた地域に限定して、その影響が拡大することを阻止していますが、通信使たちは1年近い滞日中、自由に日本人との交流を重ねています。ところが日本では文科省までもが、鎖国下の日本に往来した朝鮮通信使の役割を過大評価して、日本の文化発展に多大な貢献をしたと認定しているらしい。無知は亡国の大根源です。 妓生と通信使 漢詩は通信使たちが日本で朝鮮の威光を示す唯一の武器でもあったわけですが、漢詩に対する姿勢には、日朝の間では越えがたい溝がありました。通信使の一行は釜山から船出して日本に向かうのですが、各地で宿所に泊まりながら釜山までの旅を続けます。宿所での接待は各地のお役人がするのですが、貧しいお役人は、接待の資金を得るために自分の服を売ったり、借金したり、物乞いしたりして、接待の資金を工面します。しかし接待を受ける通信使一行は、そうした苦労も我関せずで饗応を受けています。しかしこうした苦労は地方役人のみならず、著者の金仁謙その人も、王宮に参内するための、正規の服装である官服も買えないほどの貧窮に甘んじていたことが記されています。通信史に随行するための費用は国王から下賜されますが、必要経費の半分にも満たないと嘆いています。 にもかかわらず、これらの宿所には必ず妓生(キーセン)が侍っています。例外はありません。ある宿所で、上官が通信使一行の者に詩作を命じるのですが、何と、優秀な漢詩を作った者には褒美に妓生を与えると言ったのです。日本人には理解不能です。褒美に妓生をあてがわれた者は喜んで妓生を連れて自室に戻ります。著者の金仁謙の詩も優秀だと褒められ、妓生をあたがえられるのですが、著者は拒みます。自室に戻ると、妓生が床の中で待っていましたが、金仁謙はそれをも無視しますが、翌朝、金仁謙は上官から偏屈者とからかわれます。とはいえ、金仁謙は特別に潔癖なのかといえば、釜山の宿所では、3人もの妓生と夜の床を共にしています。これも日本人には理解不能ですが、おそらく好みに合った妓生ならば、3人一緒に相手にしたということらしい。また、同僚から美人の妓生を世話してほしいと頼まれると、まめまめしく世話をしていますので、両班ならば、妓生をよりどり見どりで相手にできる官妓制度には何の疑問も抱いていないのは明らかです。 妓生なしには夜も日も明けないという旅をつづけてきた通信史一行も、日本では女気なしの道中が続きます。朝鮮の妓生に比するものは日本では遊女になりますが、日本の遊女は全て民業であり、身分の別なく、武士も町人も外で女性を相手にする場合は、妓楼に上りお金を払って遊女を相手にします。厳しい身分制度で絶対的な身分が保証されている朝鮮の両班にとっては、性産業における日本の四民平等は野蛮以外の何物でもなかったことが、下條氏の著書に書かれています。金仁謙も、日本の女性を楊貴妃以上に美人だと褒めたたえる一方、遊女には侮蔑的な感想を記しています。そして日本では通信使のもとには遊女ではなく、漢詩の唱和や添削を求める文人たちが次から次へと押し寄せてきて、その対応に忙殺される日々が続きます。日本では、尊敬すべき漢詩の師匠に、日本版妓生を提供しようと考えるような人物は一人もいなかったということです。 ところが通信使が再び朝鮮に上陸するや、妓生も一行を迎えます。妓生なしには夜も日も明けない旅が復活します。ここでも、日朝の間に横たわる溝の深さを感じざるをえません。朝鮮では妓生は中国にも献上されていますが、朝鮮では官がほぼ無尽蔵に近く妓生を供給し続けることができたのは、その厳しい身分制度が源泉です。 以上のような朝鮮通信使の実態を知れば、通信使が海外の先進文化を日本にもたらしたという韓国側の主張は、史実に基づかない捏造でしかないことは明白です。しかし九国博までもが、韓国の捏造話をそのまま受け入れ、堂々と展示までしていることには、日本国民としては激しい憤りを覚えずにはいられません。九国博の学芸員は、韓国側の主張を盲目的に信じ、自らは全く歴史の勉強すらしていないらしい。この怠惰で亡国的な九国博は即刻閉鎖せよと言いたいぐらいです。 百済と日本 しかし九国博では目下、百済展が開催されています。わたしはまだ見ていませんが、九国博の反日姿勢が来館者を洗脳しているのではないかと心配です。百済といえば、古代日本の社会システム、文化を作ったと喧伝されており、百済からの渡来人がいなければ、日本は永遠に未開の国であったかのような説が長年定着してきています。多くの専門家も信じて疑わない。しかし果たしてそうなのか。 391年に倭国(日本)は渡海して朝鮮に攻め入り、百済、新羅を支配します(高句麗広開土王碑)が、それより前の369年には、日本は百済と結び、新羅を攻めて加耶(カヤ)、任那(ミマナ)を支配下に置きます。これは中学生でも習う古代史の基本ですが、よくよく考えてみれば、この時代に、海を渡って異国に攻め入り、相手国を属国にする力を持っていた日本が、百済や新羅よりはるかに国力が劣っていたと言えるでしょうか。逆だと見るのがごく自然ではないですか。 当時の朝鮮半島は、内外の興亡激しく政情の安定しない地域でしたが、百済は新羅や高句麗の攻撃から国を守るために、絶えず日本に救援を要請してきています。日本は百済からの救援要請を受け、築城を助けるために370人を百済に派遣したり、麦の穂1000石を送ったり、矢を1500本送ったり、兵1000人、馬100頭、船40隻を派遣し、百済と共に新羅と戦ったりしています。こうした戦を繰り返す中で、日本は新羅に負けて、加耶、任那という朝鮮半島における日本の領土を失います。しかしその後も日本は百済を支援しながら、加耶、任那の復興を果たそうと企図しますが、それが果たされぬまま、660年に唐と新羅の連合軍の前に百済はついに滅亡。日本は大軍を派遣して、唐と新羅と戦いますが、これまた大敗します。(663年 白村江ハクスキノエの戦い) 百済の滅亡とともに、百済人が多数日本に渡来したのは事実でしょう。しかしなぜ日本は、多数の百済人の亡命先たりえたのか。それは日本の社会が安定しており、豊かであったからではないでしょうか。もしも当時の日本が、国内騒乱が絶えず、土地も荒れ、餓死者が出るような国であったならば、百済人は日本にはやってこなかったはずです。ついに滅亡したとはいえ、それまで百済は軍事部門のみならず、日本からは様々な支援を受けてきました。当時の日本が百済よりも豊かな国であったことは明白です。また経済力はもとより、高い造船技術、航海術がなければ、海を渡って朝鮮に攻め入ることは不可能ですし、ましてや新羅、百済を配下に置くことは不可能だったはず。さらには百済から要請を受けて、すぐさま船40隻を送ることも不可能です。百済が日本への恭順の意を示すために人質を送ってきていたことからも、日本の大国ぶりが分かります。414年に建立された高句麗の好太王碑には百済、新羅が倭国に征服されたことが記されているという。 しかし日本(倭国)は、朝鮮半島に新羅、百済が誕生するはるか昔の紀元1世紀前後の頃から国として中国の歴史書(漢書)に登場します。この頃すでに、倭国は中国に定期的に朝貢していたという。続いて紀元57年、後漢に朝貢に赴いた倭の奴国の使者は、後漢皇帝から、福岡県志賀島から出土したかの有名な漢倭奴国王(カンノナノコクオウ)の金印を授けられます。また107年には、倭国王は奴隷160人を後漢の皇帝に献上しています。そして189年には卑弥呼が倭国の女王になり、239年には卑弥呼は魏に使いを送り、親魏倭王と認められたことなど、倭国についてかなり詳しい記録が、「魏志倭人伝」に記されていることは広く知られているところです。 ところが、下條正男氏によれば、倭国(日本)が上記の中国の歴史書に登場していた頃は、百済も新羅も未だ建国されていなかったという。中国の歴史書「三国志」によれば、3世紀頃の朝鮮半島は、高句麗と、百済や新羅の前身である馬韓、弁韓、辰韓に分かれており、百済は馬韓50余国の1国で、新羅は斯盧(シロ)国という辰韓24国の一国にしかすぎなかったという。しかも辰韓は馬韓の属国的な立場にあったという。その一方、当時の朝鮮半島には、魏が楽浪郡(現在の平壌付近)、帯方郡(現在のソウル付近)を置き、一帯を支配していたという。倭国には、その魏の帯方郡に通訳を連れた使者を送ってくる国が30国もあることが「魏志倭人伝」に記されていますが、これら30国は卑弥呼によって統属されており、日本は卑弥呼の時代から非常に治安のいいことも、「魏志倭人伝」に記されています。また狩猟や漁労や稲作、麻はもとより、当時すでに養蚕までなされており、絹織物はもとより、真綿まで作り、クズ繭もムダなく利用していたことも記されています。さらには武器としては矛、盾、木弓を使い、木弓の矢じりには鉄または骨をはめ込んでいたという。200年前後の日本では、すでに鉄も使われており、産業構造も多彩、多層的であり、かなり高度化されていることが「魏志倭人伝」からも分かります。(「魏志倭人伝」については、当社刊のいき一郎編訳『中国正史の古代日本記録』も参照しましたが、本書は在庫切れです。) 日本では、先進文化は朝鮮半島から伝えられたという説が、近年、突如として浮上し、それが猛威をふるって拡がり、今や定着しつつあります。しかし日本は、少なくとも紀元1世紀前後の頃からすでに中国に定期的に朝貢しています。中国の国力や動静に関する情報が入ってこなければ、朝貢するという判断は生まれるはずはないわけですから、その頃からすでに日本には、中国語である漢語漢文を理解できる人間が存在していたことは明らかです。つまり日本は、紀元1世紀前後の頃からすでに、直接中国と交流を持っていたということです。この時当時の倭国は日本列島の一部を統治していただけですが、現在の日本の原型であることは言うまでもありません。 仏教は百済から伝えられたのは事実でしょうし、百済からの渡来人が日本に多数やってきたのは事実でしょう。しかし日本は、属国であった百済(361ー660年)が滅びるまでの270年近くもの間、あるいは日本領であった加耶、任那(369ー562年)が滅びるまででの200年近くもの間、朝鮮半島での影響力、支配権を保持してきました。日本の影響なしには、百済は存在しえなかったはずです。下條氏も、当時の百済の住人は百済人、倭人(日本人)、中国人が混在していたと指摘しています。百済が仮に日本以上に先進国であるのであれば、その先進性を示す文物や構築物が百済に残っているはずですが、ほとんど何も残っていません。 そもそも朝鮮半島にはもっとも古い古文書は12世紀以降のものしか存在しないという。百済王の武寧王の墓に残された墓誌石(6世紀後半)と、武寧王の死後に建立された二つの寺院趾(6世紀末)に残されている、器物に刻まれているわずかの文字が唯の一例外ですが、墓誌石には武寧王の出自が記されており、王は佐賀県唐津市沖にある加唐島出身だという。しかもこの墓に使われている部材や副葬品には、百済産の物は皆無。王の遺骸を納める棺は、日本にしか産しない高野槙が使われているという。日本では高野槙を使った棺は多数出土しているそうですが、朝鮮半島にはこの武寧王以外には皆無だという。そもそも朝鮮半島では高野槙はおろか、木棺そのものが存在しないらしい。日本産の棺以外は全て中国産のものだという。 専門家もこの事実を知っていますが、彼らは、日本と百済の交流を証するものだと認定しているだけです。もし仮に百済が日本よりも先進国であったのであれば、それを証する文物が皆無であるはずはありません。なぜ文字資料が全く存在しないのか。李氏朝鮮王朝の破壊から免れた仏教寺院にも全く残っていません。世界遺産に登録された海印寺の高麗大蔵経坂は13世紀のものですし、大蔵経そのものは中国から伝えられたもので、日本には平安時代の10世紀に中国から直接送られた大蔵経が法隆寺に残っています。さらに古い、聖徳太子が著した「法華義ショ」(太子自筆本、全4巻611ー615年)をはじめ「勝鬘経義ショ」(611年)「維摩経義ショ」(613年)も有名です。これらはそれぞれの経典の解説書であり、三書合わせて「三経義ショ」と呼ばれています。 中国には類書が存在するそうですが、仏教先進国だと言われている百済には類書は皆無です。そもそも仏典関係のみならず、12世紀以前の古文書が百済にはもとより朝鮮半島には残っていません。日本では、歴史書としては古事記(712年)、日本書紀(720年)がもっとも古い。同じ頃、日本各地の地方の様子を記録した風土記も編纂されています。また日本最古の歌集であり、世界最古の詩集でもある万葉集は760年前後に成立しています。しかし何度も言いますが、この頃、朝鮮半島で作られた仏教書、歴史書、歌集(詩集)や文字遺跡は皆無です。これでなぜ、朝鮮が日本より先進国であったといえるのか。 百済が滅びるまでの古代朝鮮半島の情勢から見ても、日本が百済、新羅の宗主国であり、日本の方が大国であったことは明らかですが、7世紀、8世紀の文献資料の日朝の比較からも、日本の方が朝鮮半島よりもはるかに先進国であったことは明白です。 地理的に見れば、漢字は日本よりも先に朝鮮半島に伝わったと見るのが自然ですが、にもかかわらず、古代朝鮮には文字資料は皆無であるのはなぜなのか、その理由に答えることなしに古代史を語るべきではないと言いたい。 考えられる理由としてはいくつかありますが、まず一つ目は、通訳などの専門家以外は、百済人の大半は中国語(漢語漢文)は理解できなかった。これだと百済には、日本ゆかりの武寧王のお墓や二つの寺院の遺物に残るわずかな文字以外には、文字資料が皆無であるのも当然ですが、中国人とも日常的に接していることを考えるとちょっと無理がありそうですし、百済人、倭人、中国人共通の言語としては、中国語以外には考えられません。二つ目は、百済人も中国語は理解できたが、書物や文書を残したいという政治的、社会的欲求が存在しなかった。このいずれかであったと思われますが、こちらの方が妥当性は高そうです。 文字だけが外国から伝えられても、その文字を使って何かを発出したいという欲求や必要が生まれなければ、文字を刻み、文章を記すということには至らない。日本の万葉集に収められている5000首近い歌は、漢字が伝わったから詠まれたのではなく、日常的に歌を詠み合うという長い歴史がなければ生まれえなかったことは明らかです。漢字だけが伝わっても、歌を詠むという習慣がなければ、歌は一首たりとも書き残されなかったのは言うまでもありません。また聖徳太子が611年に三経義ショを著したのも、まずは経典を読解する力があったからです。その後も日本には仏教関係はおろか、歴史、医学薬学、文芸等々、あらゆるジャンルの古文書が非常に数多く書き残されています。 世界に冠たる日本の非常に古い古文献の豊富さは、漢字の移入だけでは説明はできないはずです。これらの遺産は、日本では文字(漢字)が使われる以前から、非常に豊かな言語生活が営まれてきたことを証すものではないかと思います。事実、文字のない時代から歌を詠み合って愛の告白をしたという歌垣の伝統を持つ日本では、口承文学の豊かさも世界屈指です。豊かな言語活動は、人々の思考力を鍛える最大の基盤であり、最良の武器ともなりうるものです。日本の、世界屈指の非常に質の高い絵画資料の豊富さも、その源泉は同じです。 一方、文字が使われた痕跡がほとんど残されていない百済、新羅では、漢字は伝わってはいたものの、文字を使って書き残す社会的欲求が高まるほどには、言語活動は豊かではなかったのではないか。言語活動の豊かさは、安定した共同体の存在、存続は不可欠であり、安定した共同体は、餓えから人々を守りうる安定した生産活動とも密接不可分ですが、それらは国や地域の安定的な統治なしには成り立ちません。これは昔も今も変わりはありません。 おそらく朝鮮半島には、倭国、日本のような豊かな言語活動を可能にするような、社会的な環境は存在していなかったのではないか。朝鮮半島には、中国直輸入の仏教をはじめ文化、文物は存在していたものの、それらを自ら内在化し、血肉化するほどの力はなかったのではないか。それらの文化、文物は日本にきてはじめて内在化され、日本文化として血肉化されることで後世に残ることが可能になったのではないか。これは渡来人の功績というよりも、渡来文化のタネを開花させた、日本文化の底深い豊かさを証すものであったはずです。朝鮮半島に渡った中国文化は、日本に渡来しなければ、おそらくはそのほとんどは消滅していたはずです。 韓国が秀吉に拉致されたと主張する陶工たちも、李氏朝鮮王朝では国が管理する賤民であり、腕のいい職人ではなかったという。下條氏の著書によれば、彼らが作る器類は荒くて、置いても倒れてしまうほどに粗末な作りで、管理する役人たちは絶えず不満を抱いていたという。うまく作れなかった陶工には鞭打ち刑が科せられ、失敗の度合いに応じて鞭打ちの回数が決められていたという。さらに、陶工を指導する師匠格の陶工にも鞭打ち刑が科されたという。これでは、腕のいい陶工など育つはずはありません。しかも陶工たちは、老齢になるとお払い箱になったという。日本の職人のように技を伝承することなど、無縁の環境で仕事をさせられていたのです。 厳しい身分制度でがんじがらめに縛られていた当時の朝鮮民衆にとっては、秀吉軍を解放軍だとだとみなしても不思議はありません。民衆は秀吉軍を助け、共に戦ったという。時の朝鮮王宣粗が「賊兵(秀吉軍)の半分は我が国の人というが、本当か」と部下に尋ねたという。また救援に駆け付けた明軍が、斬ったクビの半分は皆朝鮮の民、火あぶり、水攻めの刑に処した賊兵は1万人以上もいたが、それらは皆朝鮮人だといって、事の真相を朝鮮側に確かめさせたほどだったという。民衆の王朝に対する怨念の強さをうかがわせる出来事です。しかし民衆の叛乱は、秀吉軍上陸の2日前から始まっていたという。 王宣祖がソウルを脱出したのを見るや、民衆は王宮に乱入し、略奪し尽した後、放火。奴婢の台帳を保管していた役所も、身分の解放を求める人々によって襲撃されたという。そればかりか、王や両班に収奪され続けてきた民衆は、戦の混乱に乗じて略奪や乱暴狼藉の限りを尽し、日頃の怨念をはらしたという。当時の様子を記録した書物が韓国に残されているそうですが、それによると、民衆の反乱による害は、日本人よりも甚だしい。賊をなす者、倭人はほとんどいない。大半は我が国の民である。恐ろしいことだと、記されているという。下條氏の著書『日韓・歴史克服への道』には全て出典も書かれていますが、ここも含めて全て省略。 こうした状況下にあった朝鮮から日本に渡ってきた朝鮮の陶工たちにとっては、奴隷状態からの解放を意味したはずです。陶工の中には日本でその技に磨きをかけ、日本の職人たちと同様に技を子孫に伝え、後世にその名を留めた人物もいます。日本に渡った朝鮮の陶工たちは、鞭打ち刑に怯えながら仕事を強要され、年を取るとお払い箱になる朝鮮とは天と地ほども違う、天国のような世界で仕事ができたのです。韓国人は唐津焼(佐賀県)や高取焼(福岡県)は韓国が伝えたものだと喧伝していますが、これは真っ赤なウソであることは言うまでもありません。にもかかわらず日朝の歴史の真相を知らない、学ぼうとはしない日本人は、韓国の捏造宣伝を頭から信じこみ、「高取焼のふるさとー韓国ツアー」まで企画し、日本人をさらに韓流捏造歴史で洗脳することに励んでいます。 元冦と倭冦 ここで、九国博で見た、もう一つの反日展示「元冦」について紹介します。元冦に関する展示コーナに移動した時、中年のご夫婦連れが先に展示の前に立っておられました。その横に首から名札を下げた女性のガイドが立って説明していたのですが、いやでも耳に入ってきます。その説明が、元冦の原因を作ったのは礼儀を知らぬ日本であるという、異常なまでの反日そのものの内容だったわけです。余りにも異様な説明だったのでびっくりして、そのガイドの話を聞くことに集中し、ガイド一行が移動すればわたしも移動して聞いていたのですが、日本が憎くてたまらいという説明が続きます。わたしは余りのことに、思わずガイドに向かって、あなたの解説は余りにも偏りすぎではないですかと抗議しました。しかしそのガイドは驚いた風もなく、わたしを一瞥しただけでなおも説明を続けています。わたしは平然としているガイドの態度に驚き、抗議をしてもムダだと悟り、後を追うことは止めました。 しかし離れても、ガイドの声は中身までは聞き取れないものの、音としてうるさく耳に入ります。ガイドの話の内容で気分が害された上に、静かな館内ではその声はうるさい音として響きます。美術館や博物館のガイドは害悪です。展示物そのものに語らせるべきですが、その展示物にも不当な工作が施されている現実を前にすると何といえばいいか、言葉が見つからない。 元冦の展示にも、反日解説がなされていたのかどうかは全く記憶にはありませんし、元冦の展示そのものも、ほとんど記憶に残っていません。ガイドに妨害されたからです。このガイドは昨今はやりのボランティアガイドだったのかどうか分かりませんが、映像コーナの受け付けもしていたので、職員だったのかもしれません。暗い館内なので名札もよくは見えませんでしたが、九国博の方針に従った解説をしていることは間違いないはずです。 下條氏の『日韓・歴史克服への道』にも元冦が取り上げられていますが、元皇帝は、属国であった高麗王を使って、何度も日本に対して「朝貢かさもなくば征伐か」と朝貢を強要してきたそうですが、時の鎌倉幕府は、この強要を無視し続けたという。当時元は中国、朝鮮のみならず、東ヨーロッパまで征服していましたので、日本に攻め入ったとしても不思議ではありませんが、日本を武力で制圧することを元皇帝に進言したのは高麗の忠烈王であったという。忠烈王による東征(日本征伐)要請から2年後に文永の役(1274年)が起こり、弘安の役(1281年)では、忠烈王が2度に渡って元皇帝に日本征伐を要請し、再び元、高麗の連合軍による日本侵略が開始されたという。 いずれも元冦は暴風雨に遭い、日本本土への上陸には失敗していますが、途中にある対馬や壱岐などには攻め入り、殺戮の限りを尽しています。特に高麗軍の残虐性は凄まじいものであったらしい。わたしは昔、その殺戮の場面を描いた絵を見たことがありますが、妊娠した女性の腹を割いて赤子まで切り刻む残虐な場面を描いたものでした。恐怖を伝えるその生々しさは、日本の伝統的な絵からは完全にはみ出したものでした。おそらく後世に描かれた絵だとは思われますが、元冦軍による殺戮の残虐さが後の世にも語り伝えられていたのではないかと思われます。 こうした事実を明らかにせずに、日本で元冦については語るな、教えるなと言いたい。こういう事実を知ったからといって、日本人はこの事実だけでモンゴルや韓国に悪感情を抱くことはないはずです。日本をおとしめるために、事実に反した捏造歴史が流布されるとは言語道断です。 倭冦については元冦が原因で始まったことが、下條氏の著書には詳しく解説されていますが、長くなりますので、要点だけを紹介します。倭冦は、それまで自由になされていた海の交易が元冦によって破壊されてしまったことが原因だという。それを認めた文書が中国にも韓国にも残されているという。しかも倭冦には、「倭装」した(日本人に化けた)朝鮮人が多数含むまれていたという。日本人は1、2人、他は全て朝鮮人であったという例すらあったいう。さらに時代が下ると、ほとんど中国人ばかりの倭冦が朝鮮半島や中国の沿岸を荒らし回ったという。 数カ月前、東大の資料編纂所の山本博文教授が、NHKラジオで倭冦について触れた際、前期の倭冦は日本人であるが、後期の倭冦は全て中国人であると明確に断定していました。しかし朝鮮人も倭冦に化けて沿岸地域を荒らしていたことには一言も触れていませんし、元冦との関係も全く触れていません。韓国人に不利になるようなことは、一切触れない、隠蔽するというのが東大の姿勢なのかもしれません。九大ではすでにこの姿勢は定着していますが、このままではおそらく日本中の大学を汚染するはずです。そして日本中の歴史学者が韓国人に、日本の文化を作ってくださってありがとうございますと、拝跪する日も来るのではないか。そうなれば日本は、精神的には韓国の属国とならざるをえません。韓国人による日本の歴史纂奪事業が一つの完成形をみることになりますが、精神的な属国関係はやがた政治、経済、あらゆる分野にも及びます。日本国支配という、朝鮮人の年来の妄想が妄想から脱し、現実になる可能性すら出てきます。この過程で、韓国人に不利になるような文献が廃棄されることになるのではないかと心配です。 文科省の大罪 九国博のある福岡県太宰府市では、太宰府は韓国がつくったという韓国人の妄想が、行政(太宰府市)レベルで、そして一部の市民層にも事実として信じられています。このままでは、太宰府市は韓国拝跪路線へと進むことになりそうですが、こういう事態を放置してきたばかりか、自ら韓国政府の代理人よろしく捏造歴史の旗を振り続け、無知な人々に属国感情を植え付けてきた日本の歴史家の怠慢は、すでに亡国の域を突破しています。 しかし歴史家だけを責めることはできません。日本の文科省が、韓国に迎合した歴史研究にしか資金を回さない方針を打ち出しているからです。外国人学者や留学生や海外の研究者や海外の研究機関との連携研究の数が多ければ多いいほど、大学や研究機関に配分される研究費が多くなるという仕組みが導入されているからです。これはOECDの文教方針(大学評価基準)も影響しているとは思われますが、日本の文科省は、この基準に依拠すれば、日本史研究では韓国迎合が加速されることを承知の上で、研究費の選択的配分を強化し続けています。その結果、韓国人を呼び込んだ韓国迎合研究には資金が集り、人も集るという好循環が実現していますが、日韓の歴史を事実に基づいて研究している誠実な学者には配分される研究費は乏しく、朝鮮研究そのものの存続さえ危ぶまれる状況にあるという。 のみならず、事実を冷静に明らかにする学者に対しては、在日韓国大使館が直々に抗議してくるという。外国の大学や学術機関で事実に基づいてなされる歴史研究に対して、政府(大使館)自らが介入してくる韓国のような国は、先進国ではもとより、後進国にも例はないはずです。史実に基づく朝鮮史研究は文科省に冷遇され、韓国政府直々の恐喝にもされされています。 そもそも文科省の大罪は、大学大改革と称して、日本語、日本文学を研究する国文学科や日本史学科などを廃止に追い込んだことにあります。私大ではこれらの学科は今も存続しているところもあるようですが、国公立大学からは完全に消えたはずです。現在も優秀な国文研究者や日本史研究者はいるはずですが、教員(研究者)の数が激減したことは明らかです。国文科が廃止になり、研究者が激減したことは、これまで営々と蓄積されれてきた国文学研究を組織的に継承していく機能の減衰をもたらし、研究者の質の低下も避け難い。古文書を相手にする国文学や日本史(東洋史、西洋史なども同様)の研究は素人には不可能であり、専門家でも一朝一夕にできるものではありません。 中国の捏造歴史は近代に入ってからだと思いますが、韓国の捏造、隠蔽歴史は古代から始まっています。そして古代が現在に即直結しています。韓国が日本の歴史を、古代から捏造していることに危機感を抱いている学者はきわめて少数です。韓国流捏造歴史を日本に移入しつつある韓国は、いわば日本の歴史を丸ごと纂奪しようとしているわけですが、古代中国の歴史を見るまでもなく、歴史の纂奪(編纂)は、権力の奪取、権力の強化に繋がります。韓国の捏造歴史は、韓国にとっては日本に朝貢を要求する唯一最大の根拠となるものです。日本は韓国からの不当な要求を拒絶するためには、韓国の捏造歴史を捏造であることを明らかにする必要があります。 しかし研究者の質が低下すると、韓国流捏造歴史もウソだと見抜く力もなく、また自ら原典に当って、直接歴史の真偽を確かめようという意欲すら持たない怠惰な研究者が激増します。九国博の反日展示に見るように、今の日本には韓国流捏造歴史が大手をふっています。理系はスタップ細胞のようにウソはやがてばれてしまいますが、現在の日本と世界は、歴史の真偽は政治力で決まるという退廃の極地にあります。この退廃の極地を準備したのは日本の文科省であり、日本政府です。日本が自ら、韓流捏造歴史を論破できない状況下では、世界に拡がる中韓流捏造歴史を振り払うことは不可能です。 アメリカの朝鮮史研究者の中には、韓国の新聞記事だけを唯一の資料にして論文を書いているお手軽学者もいるらしい。これだと、ハングルさえ読めれば朝鮮研究家だと自称できますが、いやでも反日学者にならざるをえません。しかしアメリカでは、お手軽反日学者もそれなりに権威があるらしい。最近の日本も似たようなお手軽学者が増えているはずです。その結果、日本の子供たちは今なお、古代から始まる韓流捏造歴史を教えられ、信じこまされています。しかし3、4年前の朝日新聞のインタビュー記事に登場した文科省幹部は、今後もさらに文系学部を潰す意向を表明していました。反日官僚によって、日本の知が破壊されつつあるわけです。 その上韓国では、昨年暮に、親日人物事典を各学校に常備することが義務づけられました。歴史を事実に基づいて研究している研究者も、この人物事典に含まれています。朴政権は、親日分子を吊るし上げる、韓国版紅衛兵を育成する魂胆らしい。福祉予算が乏しい韓国では老人の自殺率が先進国中最悪だそうですが、反日活動には惜し気もなく予算を投入します。これまでも史実に誠実な韓国人研究者は、殴る蹴るの暴行を受けることもありましたが、今後は親日分子批判がさらに強化される模様。日本政府は、こんな国には1銭たりとも支援をすべきではありません。 最後に、故宮博物展の感想を一言。中国の覇者となった清朝は、かつて世界の大帝国をつくった漢民族からするならば、化外の民、蛮族にすぎませんが、清朝屈指の名君と呼ばれた乾隆帝は、古代から始まる中国の全歴史を我が物とすべく、歴史の大編纂事業に取りかかります。清朝皇帝は、中国の全歴史を自らの手で編纂し直すことで、異民族(女真族)であるという立場を止揚したのではないかと思います。中国皇帝にとっての歴史の重みを感じさせられる展示でした。さらに乾隆帝は廃れていた景徳鎮窯の再興も果たし、芸術の復興にも力を注いだそうですが、その成果も多数展示されていました。しかし中国のコピーであることを自ら任じ、誇りにしていた朝鮮王朝は、中国文化の全体像をほとんど知らぬまま、王朝の終焉を迎え、今日にまで至っています。ただ中国最後の王朝である清朝は、中国の過去の栄 もう一点、湯川遥菜、後藤健二両氏が、残虐さを売物にしているイスラム国に殺害されました。痛ましさには言葉もありませんが、イスラム国はなぜこれほど短期のうちに勢力拡大に成功したのでしょうか。大いなる疑問です。 |
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