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葦の葉通信23号 2017/1/25 |
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久本福子YOSHIKO
HISAMOTO 宗像・沖ノ島の原住民 前号で少し触れました宗像・沖ノ島関連遺産をめぐって、新たに重大な事実が判明しましたので、新年最初のテーマといたします。 古い沖ノ島発掘報告書をぱらぱらとめくっていたところ、沖ノ島には弥生時代はおろか縄文前期、さらには縄文前期以前(旧石器時代)の遺跡まで残されていたという記述に出くわし、びっくりしています。ここ何年もの間、世界遺産登録運動で活発化した、沖ノ島の祭祀遺跡に関する様々な報道を見聞きしてきましたが、これほど古い遺跡が残されていたとのニュースや報告は皆無です。わたしは沖ノ島関連ニュースには比較的注意を払ってきましたので、広く流される一般的な報道ではこの種の事実は全く伝えられていない、つまりは隠蔽されてきたといっても間違いではないはずです。専門家は全員、当然のことながらこの事実は知っているはずですが、沖ノ島世界遺産登録の紹介では、祭祀遺跡に直接関連すると思われる以外の遺跡は、我々一般人には全く開示されていません。 念のため、宗像大社のHPで調べたところ、遺跡を収蔵展示する神宝館のHPには、4世紀後半以降550年に渡る古代祭祀に関する発掘品の解説しかありません。ネットで探したところ、邪馬台国大研究の沖ノ島・祭祀遺跡には、神宝館の展示内容として、弥生・縄文遺跡の一部の展示品が下方に紹介されていますが、この展示が現在も継続されているかどうかは不明です。というのは、昨年、宗像大社で開催された沖ノ島大神宝展には、祭祀関連の神宝しか展示されていなかったからです。宗像大社の由来を示す世界遺産関連の神宝展だったので、直接祭祀に関連しない遺跡は除外されたのかもしれませんが、現在開催中の九州国立博物館の沖ノ島展でも、縄文や旧石器遺物は展示されていないはずです。 しかし古代祭祀の由来は、その祭祀を担った人々への考察抜きには明らかにはできないはずです。にもかかわらず、なぜ縄文遺跡や旧石器時代の遺跡が全く開示されず、隠蔽されてきたのか。もしもこの古い古い遺跡の存在が明らかになるならば、以前ご紹介したような、高度な文明をもった朝鮮半島からの渡来人によって沖ノ島祭祀は始まったという荒唐無稽な話は誕生しなかったことは言うまでもありません。荒唐無稽とはいえ、この出鱈目話は宗像市が公式に採用し、宗像市の手によってマンガ化されて県内外に広宣されました。さらにはNHK福岡放送局では、このマンガをラジオドラマ化して流布に協力しています。そしてめでたく、沖ノ島祭祀関連遺産は日本国内での遺産候補に推薦されました。そして、晴れて正式に世界遺産に登録された暁には、日本の古神道の姿をとどめる宗像・沖ノ島祭祀が多少なりとも国内外にも知られるようになるはずですが、それは同時に、日本の神道の発祥には韓国人の祖先が関与していたという捏造話も国内外に流布される機会ともなるはずです。 しかし日本の旧石器時代にはもとより、縄文時代(紀元前1万4000年〜紀元前300年頃)には、朝鮮半島にはいかなる国も存在していませんでした。そもそも朝鮮半島に初めて出現した王朝であるキ氏朝鮮(中国の殷からの亡命者キ氏による創建らしいので紀元前1200年頃?〜紀元前194年頃滅)や、次にキ氏を滅ぼして登場した中国、燕の衛満による衛氏朝鮮(紀元前194年頃〜108年、前漢武帝に滅ぼされる。)など、朝鮮半島での国の創建は中国王朝によるものです。これらの単独王朝が滅びた後も、半島は中国王朝の支配下にあり、日本でもよく知られている楽浪郡や帯方郡など以外にも、いくつもの郡県が置かれていました。地理的な一体性に加え、国の出自からも李氏朝鮮以前の、百済や新羅や高句麗も含めた古代の朝鮮半島諸国は、中国人によって作られたといっても過言ではありません。この事実を確認しなければ、朝鮮半島の歴史は誤謬に満ちたものにならざるをえません。そしてその誤謬の歴史は即、日本に跳ね返ってきます。日本人としても古代朝鮮の歴史に強い関心をもたざるをえないゆえんです。 その誤謬は沖ノ島にまで及んでいるわけですが、縄文遺跡などの古い古い遺跡はその誤謬を正す有力な証拠となるはずです。ただ残念なことには、弥生、縄文遺跡やさらに古い遺跡は祭祀遺構の下にあるので、大規模な発掘調査は困難だと思われます。おそらく現在に至るも、沖ノ島の祭祀遺跡の下に眠る古い遺跡の本格的な発掘調査は行われていないはずですが、一部実施された発掘調査でも、弥生、縄文につづき、縄文以前の遺跡まで存在していることは確認されています。一部の発掘調査やその出土品だけでは推測も困難かとも思われますが、沖ノ島には縄文以前から人間が住んでいた、あるいは継続的に滞在していたことだけは間違いありません。 非常に素朴な形で始まった沖ノ島の祭祀は、彼らの手によるものであったことは明らかです。逆にいえば、沖ノ島の祭祀遺構が、人智を超えたものへの祈りを捧げるという、日本の神道のみならず、宗教そのものが普遍的に内包する原初的な祈りの姿をとどめていることは、沖ノ島の祭祀がどこか外部からもたらされたものではなく、この島に住む人々の中からごくごく自然発生的に生まれたものであることを証しています。彼ら先住民を追放して、外部者がこの島を配下に置いたなどということは、万に一つもありえぬことは言うまでもありません。 沖ノ島周辺は今も昔も好漁場であるばかりか、島は豊かな緑に覆われています。沖ノ島の植生を調査した報告書によると、島には南方系の植物も含まれているという。自然物の採取や捕獲で生活していた縄文や旧石器時代の人々にとっては、現代の我々には小さな島に見える沖ノ島も、生活を豊かに支える宝の島であったに違いありません。しかし自然は豊かな実りをもたらす一方、人の命を瞬時に奪う厳しさをも持っています。人智を超えた自然=神への祈りは、海のただ中で暮らしを支える、彼らの内発的な欲求としてごく自然に生まれたのは必然でした。 また彼らは、どこの誰よりも航海術に長けていたであろうことは言うまでもないでしょう。小国が分立していた九州本島では、やがて徐々に国家を形成し始める有力者が登場(記紀神話では天孫降臨として語られているが)、その動きはさらに加速し、東方にその版図を拡大した日本の統一国家の長たる天皇によって、何千年、あるいは万年もの間、宗像の海を手の中にして暮らしてきた彼らとその祭祀に対して、格別の地位が付与されました。日本国の、そして天皇家の祖霊神たる天照大神の三人の皇女が、三女神として宗像、沖ノ島に降されたという記紀神話は、当時の日本の国家が、万年も前から宗像、沖ノ島で暮らししてきた人々に、いかに敬意を払い、彼らをいかに重要視視していたかを証明しています。 新羅討伐や度重なる朝鮮半島への侵攻、さらには遣隋使、遣唐使派遣という国家的大事業は、彼らの航海術によって支えられたであろうことは言うまでもないでしょう。事実、発掘調査報告書によると、遣唐使派遣では大和朝廷の命により、宗像神社のみならず、香椎宮や宇佐神宮などのご祭神にも、往還の安全を祈願させたという記録が残っているケースもあるという。神社ばかりか寺院にまで祈願させたという。当時の航海がいかに困難であったか、そして遣唐使派遣がいかに重要な国家事業であったかを物語っています。 韓国の文明的今昔の落差 ところで、古代の日本には、百済、高句麗、新羅をはじめ日本の直轄地になっていた任那などの朝鮮半島から、先進的な中国文明に関わる様々な文物や人材が渡来したのは事実です。この事実からは、古代朝鮮(韓国)は日本よりあらゆる面で優秀で上位にあり、先進的であったとのイメージが導出されますが、このイメージはその後の朝鮮半島の歴史によって否定されざるをえません。わたしの長年の疑問は、古代の朝鮮においては、中国文明移入の差異によるものだとはいえ、日本より優位にあったにもかかわらず、その後の王朝ではその優位性が完全に消滅してしまったのはなぜなのかというものでした。そして素人なりに考えて出した結論が、古代朝鮮とその後の朝鮮とは、王朝を含む社会の構成員に大幅な異動(単に物理的に移るという「移動」ではありません。)が発生したのではないかということです。 古代の朝鮮からは様々な分野の工人(職人)や学者等が日本に渡ってきています。日本に人材を派遣するぐらいですから、朝鮮の各王朝には多数の工人や学者たちがいたと思われますが、彼ら工人や学者たちがその後の朝鮮各王朝において、その能力を発揮して様々な文化的産物や工芸的産物、学術的産物、文芸的産物、絵画的産物、医学的産物、建築的産物等を案出し、後世に伝え残したという事実はほぼ皆無です。残されているのは古代王朝時代のものばかりです。韓国が誇る陶磁器ですら一人の陶工すら名を残さず、その産物たる陶磁器が世界に輸出されたという事実は皆無です。 不可解なことには、なぜか、連戦連敗の敗軍の将秀吉について日本にやってきた朝鮮人陶工たちは(韓国人の拉致説に従えば、戦勝国の職人たちが「2度も連敗した敗戦国に連行された」という、世界の戦史上、例のない事例)、日本ではその名が後世にまで伝えられていますが、彼らがその名をなしたのは、日本の長い絵画的伝統を基に、中国の陶磁器を師匠にして伊万里焼などを創出し、世界に輸出するほどの製品の製造に成功したからでした。同じ九州にある高取焼も朝鮮人陶工が従事しましたが、彼らは茶陶の精髄を学ぶために遠州窯に修行に出向いています。韓国人は、自らは伊万里焼一つ作ることができなかったにもかかわらず、日本の陶磁器は韓国人が作った、教えたと言い募り、その宣伝のためのイベントを在福岡韓国領事館(韓国政府)が毎年開催しています。 日本や中国はもとより、東南アジア各国やアフリカや南米などでも各国、各地域特有の織物を生産してきましたが、韓国には生活の必需品であるはずのその種の産物もありません。水田の灌漑には不可欠の水車も、裁縫には不可欠の縫い針すらも、朝鮮半島では李氏朝鮮王朝が滅亡するまでは作ることができませんでした。これら日常品以外でも、日本や中国には石橋が多数建造されていますが、韓国には皆無です。中国の石橋はその規模の巨大さ、数の多さには驚かされますが、日本の石橋も多彩です。(弊社では代表的な眼鏡橋にフォーカスした榊晃弘氏の写真集『眼鏡橋』を出版)しかし韓国には石橋はありません。川の上に架ける橋は地上に建てる建造物よりは難しい面があると思われますが、韓国には地上にすら壮麗と表現できるような建造物も非常に乏しい。さらにいうならば、韓国には、道路ですら、日本統治が始まるまでは敷設、建設されることはありませんでした。日本では600年代の飛鳥時代から道路の建設が始まっています。日本と韓国との文明的、文化的落差は、あらゆる領域において大きな開きがありますが、その差は比較が困難なほどに大きいといっても過言ではありません。 朝鮮半島におけるこの驚くほどの古代とその後の時代との落差は、何に起因するのでしょうか。朝鮮半島の社会構成員が古代から現代まで、基本的には同じ朝鮮民族であったのであれば、これほど極端な断絶は起こりえなかったことは誰も否定はできないはず。つまり、朝鮮半島では、百済や新羅の古代においては社会の中枢を担っていたのは中国人であったということです。朝鮮半島に最初に王朝を築いたのは中国人であり、王朝滅亡後は中国王朝自らの直轄地となったことからもしても当然すぎる事実ですが、これ以外に、朝鮮半島における文明的今昔の断絶の理由はありえないはずです。 のみならず、日本や中国にあるような道路や石橋、あるいは壮麗な建造物や巨大な古墳などは、先進的な技術力に加え、豊かな財力に裏打ちされた強大な力をもった国(国家)の存在を証明するものですが、そうした遺跡や遺産が皆無である朝鮮半島は、古代においてすら、そうした強国は一度も存在したことがなかったということです。また古代朝鮮では鉄の生産がなされていましたが、その後は鉄の生産が継続された気配はありません。その技術が継承されていたならば、李氏王朝自らが鉱山開発を続けたはずですが、その事実はなく、王朝末期に欧米に採掘権を譲渡して、採鉱は外国任せ。やがて日本も加わりますが、李朝は手数料稼ぎをしていただけです。 韓国人や韓国様々とほめたたえる一部日本人や一部日本人学者たちは、朝鮮におけるこの文明的今昔の断絶を直視すべきです。そして古代朝鮮の粉飾を即刻、中止すべきです。それなしには、日韓の正常な関係を築くことは不可能です。なぜならば、韓国人と一部日本人による、この文明的今昔の断絶の隠ぺいは、古代から一貫して日本以上に栄えてきた韓国(朝鮮)は、日本の植民地支配で破壊されたとの歴史を無視した主張の根拠となっているからです。 ここで再び沖ノ島関連の話題に戻ります。 沖ノ島からは、 皇朝十二銭(古代の日本で708年から958年にかけて公式に鋳造された、和同開珎,万年通宝,神功開宝,隆平永宝,富寿神宝,承和昌宝,長年大宝,饒益神宝,貞観永宝,寛平大宝,延喜通宝,乾元大宝という 12種の銅貨の総称。この間に鋳造された銀貨、金貨は含まない。)の一つである富寿神宝(818年)が出土していますが、実は沖ノ島からはこの富寿神宝発掘以前にすでにいくつもの皇朝十二銭が出土しており、和同開珎、万年通宝、神功開宝の計19枚が、兵庫県芦屋市にある黒川古文化文化研究所に保管されていたことが、沖ノ島発掘調査報告書に記載されています。過去形で書いたのは、現在、同研究所に沖ノ島出土品が保管されているかどうかが不明だからです。 黒川古文化研究所という名は初めて目にしましたが、ネットで調べたところ、大阪で証券業を営んでいた黒川家が三代にわたって集めた東洋・日本の古美術、考古資料、約8500件を収蔵している私立の博物館らしく、昭和49年11月に、芦屋市から西宮市苦楽園に移転しています。昭和25年(1950年)に「中国と日本を主とした東洋の古文化を調査研究して、その正確な知識を広く世に普及して、社会文化の発展に寄与すること」を目的として、3代・黒川幸七(黒川家三代)とその妻・イクが所蔵の文化財、土地建物、基本金とともに寄付し、財団法人・黒川古文化研究所を設立」したという。現在も定期刊行物を発行し、古文化研究の成果を逐次発表し、設立当初の指針が受け継がれているようです。しかし、同研究所のHPに公開されている研究所の収蔵品紹介や画像や刊行物などを見ても、沖ノ島出土に関する品々への言及は皆無です。 もしも現在も同研究所に保管されているならば、ここ数年、宗像・沖ノ島の世界遺産登録が話題になっていますので、同研究所保管の貨幣が公開されないはずはありません。しかし実物の公開どころか、沖ノ島の名前も皇朝十二銭の文字も皆無です。不可解至極。どこかへ蒸発したのでしょうか。現物は蒸発させられたのかもしれませんが、沖ノ島からは、現在確認できる富寿神宝に加え、19枚の皇朝十二銭が出土したと考えるべきではないかと思われます。 沖ノ島出土の神宝類は伊勢神宮の神宝と類似のものであることは知られていますが、昭和45年に刊行された沖ノ島発掘調査報告書によると、岡山県笠岡市大飛島遺跡や三重県鳥羽市神島の八代神社や和歌山県新宮市の速玉神社にも沖ノ島と類似の神宝があるという。報告書には、さらに精査すれば、沖ノ島と類似の神宝は他にも多数みつかるはずだと書かれていますが、平成18年に大阪府八尾市で発掘された小阪合(こざかあい)遺跡でも、4世紀頃からの祭祀遺構を示す品々や皇朝十二銭が20数枚見つかったという。(参照:「橿原日記」小阪合遺跡で見つかった水辺の祭祀遺構)福岡にいるとこの重大な発掘については、ニュースとしては全く伝わってきません。さっきネットで知ったばかりです。 いずれも海に近いこれらの神社や祭祀遺構では、沖ノ島と同様の航海の安全を祈る祭祀が行われたと思われます。報告書にも書かれているように、おそらく精査すれば他にも似たような事例は多数存在するはずです。日本の神道の由来や変遷は、これら国内の古い神社や祭祀遺構などの調査研究によって明らかになるはずですが、国内調査は完全に放棄されたまま、近年はもっぱら韓国との関連性ばかりが不自然にもクローズアップされてきました。沖ノ島はその地理的特異性もあり、また日本書紀に由来が記されていることもあり、特別の事例だと考えられがちですが、日本の神道の源流や変遷を研究するのであれば、超不自然なほど韓国との関係を語るのではなく、沖ノ島以外でも日本各地で似たような祭祀が行われていたことにこそ目を向けるべきではないか。 韓国でも沖ノ島と似た祭祀遺構だという、百済時代の竹幕洞(ちくまくどう)祭祀遺跡が発見されたという。この遺跡は黄海に面した海岸に位置しており、その場所柄航海の安全を祈ったのであろうと言われていますが、この遺跡からは、大量の百済土器の破片とともに、沖ノ島出土の石製模造品に似た日本製の遺物や中国製の青磁や伽耶製馬具なども出土したという。この遺跡の発見は、沖ノ島は韓国が作ったという主張の要因の一つにもなっているようですが、ここで行われた祭祀は倭(日本)様式による祭祀であったと指摘する韓国人学者もいます。ただ彼も祭祀の発祥は百済だと考えているようです。しかし竹幕遺跡には鉄製品はあるものの、沖ノ島のような超豪華な金銅製の奉献品は含まれていません。 もしもこの祭祀遺跡がほんとうに百済王朝自らの主宰によるものであるならば、当時の百済や新羅など朝鮮半島では、日本とは比較にならないぐらいの多数の金製品が作られていたと言われていますので、沖ノ島並みの、あるいは沖ノ島以上の超豪華な奉献品が出土するはずですのに、一点も出土していません。他国の神(沖ノ島)には豪華な金銅製の品を奉献しているにもかかわらず、何という名の神様かは不明ながら、百済の人々は自国、百済の神へは百済土器という日常品しかお供えしないということがありうるでしょうか。ありえぬことは子供にも分かる道理です。そもそも、もしも百済人自らが神への祭祀を行っていたのであれば、古代にあっては神への祭祀は政治の核心ですので、その神の名と由来を記した祭祀に関する記録がどこかに残されているはずですが、その種の記録は皆無です。当時の朝鮮は、日本よりも文字先進国であったにもかかわらず、記録は全く残されていません。 しかもこの竹幕遺跡は、百済滅亡後の祭祀については全く不明だという。百済人自らが神様をお祭りしていたのであれば、百済滅亡後も百済人によって祭祀は続けられてきたはずですが、朝鮮の人々にとっては、日本統治までは神への祭祀は全く無縁なものでした。朝鮮では、神への祈りに関しては文字としても全く残されておらず、実態としても残されていない。日本では、沖ノ島祭祀はその後、社(やしろ)を構えた信仰形態へと変遷して、宗像大社の祭祀として、今に至るも途切れることなく受け継がれてきています。日本各地にある神社でも全く同様です。 日本の専門家も韓国人の浅薄な捏造話にそそのかされず、冷静に対応していただきたい。朝鮮では、古い時代の文字資料が非常に乏しいので、実物遺物で勝負しようということで、韓国人は手段を選ばず、実物そのものを捏造する可能性すらあることに留意する必要があるはずです。竹幕遺跡からも、沖ノ島級の豪華な遺物が突如発掘されるかもしれません。その上、様々な素材で立体物の作成が可能な3Dプリンターまで登場しています。 ところで、韓国に侵入される前の沖ノ島調査報告書には、沖ノ島祭祀は、新羅討伐や遣唐使派遣という重大な国家的事業との関連性が非常に強いことも指摘されています。皇朝十二銭のみならず、奉献された数々の神宝の超豪華さからも、大和朝廷直轄の祭祀であったことは明らかですが、遣唐使廃止とともに沖ノ島での大規模な祭祀も姿を消したと思われると指摘されています。 しかし近年の沖ノ島関連では、遣唐使などは全く登場しません。それどころか、沖ノ島の神様(ご祭神)を古代の日韓がともに祈ったかのような話さえ喧伝されています。しかし、古代の日韓関係を記した日本最古の正使である日本書紀には、神功皇后の新羅征伐以来、貴重な品々を持参して朝貢する新羅と百済の使者や王族が繰り返し登場します。しかも彼らの朝貢が途絶えると日本はすぐさま使いを派遣して、朝貢せよと要求し、従わなければ、武力に訴えるという強硬手段をも即座に行使しています。こういう記述が繰り返し繰り返し登場します。現在の感覚では、我らが祖先ながら、いささかひどいなあと思わないでもありませんが、世界では第二次大戦終了までは、武力による「外交」はごく一般的であったということです。 韓国には古い文献が存在しませんので、彼らももっぱら日本の正史たる「日本書紀」に依拠して、日本の文化は韓国人が作ったと主張しているわけですが、その主張を邪魔するような記述は完全に無視です。新羅や百済が日本に制圧され、日本と百済・新羅とは、朝貢を受ける側と朝貢する側という関係にあったという事実は、韓国人のプライドを傷つけるゆえに決して認めようとはしません。沖ノ島に関していうと、こうした事実を直視するならば、半島からの渡来人が沖ノ島祭祀の開祖だという捏造や、日韓両国の人々がともに沖ノ島に宝物を供え、祈りを捧げたという捏造美談が成立しないからです。20世紀の日本による朝鮮統治に対しては、韓国人は、日本の統治によって朝鮮が近代化され見違えるように発展したという事実を完全に無視して、延々と日本の植民地批判を続けていますが、古代に日本が朝鮮を統治し、朝鮮諸国は日本に朝貢してきたという事実は決して認めようとはしません。にもかかわらず江戸時代には、将軍の代替わりごとに、朝鮮は、その祝賀のために朝貢使を派遣していたことは、にぎにぎしく喧伝して世界遺産に登録しようとさえしています。 記紀神話と韓国 韓国人の捏造は記紀神話にまで及んでいます。日本の建国神話は、712年成立の「古事記」と720年に成立した「日本書紀」に記されています。古事記と日本書紀はともに天武天皇の命による国家事業として編纂されたものですが、それぞれ編纂の趣旨が異なり、個々の神話の内容には異なる部分はありますが、構成の大枠ではそう大きな違いはなく、ここでは「記紀」として一括して表記します。韓国(朝鮮)の建国神話である檀君神話が記載されている「三国遺事」は1280年代に成立。まず根拠とすべき文献の成立そのものに、日韓では600年近くの差があります。日本の「記紀」が、朝鮮で600年近くも後に書かれた「三国遺事」を参照して記紀を編纂したということは、そもそも物理的に不可能であり、ありえませんが、韓国人は平然と記紀神話すら日本が韓国を真似たと主張しています。さらに驚くべきことには、専門家を含む日本人の一部にもこの模倣論に従う人々がいて、広宣に協力しています。意図的に事実を無視するこういう人々を批判するのは徒労にも思えますが、我慢してつづけます。韓国初の正史は、「日本書紀」より420後の1145年に作られた「三国史記」ですが、朝鮮初の正史には檀君神話はどこにも記載されていません。「三国遺事」は一然という僧侶による私史ですが、檀君神話がいかに新しく創作された神話であるかを物語っています。 では肝心の神話の内容はどうなのでしょうか。日本の記紀神話は記述には違いはあるものの、まず天地開闢、天地混沌の中から神々の手によって国が産まれるという国産み神話から始まります。この始まりは、日本の記紀神話が、我々はどこから来て、どこへ行くのかという、西洋近代哲学の主テーマにまで引き継がれてきた、人間が根源的に抱く存在そのものへの畏怖を示したものだと思います。この世界はなぜここにこのようにして存在するのか、そのことへの疑問や畏れを抱かない人々からは、記紀神話のような国産み神話は産まれないはずです。続いて記紀神話では、国々が産まれると、それらの大地には多種多様な自然の恵みもたらし、人間世界を形成する森羅万象のことごとくが、神々の化生としてこの世に産み出されたことが語られています。日本人には、あらゆる物に神が宿るという心性が、いわば天与のものとして備わっていますが、「記紀」によってその由来が文字として書きとどめられています。 朝鮮の建国神話である檀君神話は、天から降りてきた神の息子が人間に変身し、同じく人間に変身した雌の熊と結婚して誕生した檀君によって創建されたというものらしいですが、日本の記紀神話とは似ても似つかぬものであることは多言は無用です。しかし韓国人は、檀君の父親が天から降りてきた神であるという一点で、檀君神話が日本の記紀の天孫降臨神話の基であると主張しています。日本の天孫降臨は、天照大神の孫であるニニギノミコトが、天界である高天原から地上の高千穂の峰に降るという文字通りの天孫降臨神話ですが、天界から神が降りてきたという意味での天神降臨神話は、中国では、紀元前1500年頃に建国されたという殷の時代には既に存在していたことが、残された殷の時代の図像から判明しているという。(神と熊の結婚譚はなし。)天神降臨神話は、中国や日本のみならず、世界各地にあるはずで、13世紀末になって初めて誕生した韓国の後発神話は、先行神話の影響を受けることはあっても、その逆はありえぬことは子供にも分かる道理です。 国産み神話、創世神話は中国以外にもありますが、有名なところでは旧約聖書の創世記でしょう。他にも日本の記紀神話と類似の神話は、インドネシアやポリネシアなどの南方地方やギリシャやイランやインド、ゲルマンなど多数あり、特にイザナギ、イザナミ神話はギリシャ神話との類似がもっとも顕著だという専門家の指摘もあります。ギリシャ神話の個別神話との類似もさることながら、神によって天地開闢がなされ、世界を神々の化生として認識するギリシャ神話は、化生のありようは全く異なるとはいえ、世界把握のありようとしては、大枠でも記紀神話に似ているとも思われます。国産み神話の有無は、世界認識の根源に直結するものであり、神話の枠組みとしては最重要な要素ではないかと、素人には思われます。この根源的な世界認識については、国産み神話が存在せず、神と熊との結婚が基軸となっている韓国の神話と日本の記紀神話との間には、全く類似点は存在しません。皆無です。予算獲得のためなのか、昨今増殖している、時流に乗った韓国拝跪的な専門家ではなく、本来的な専門家が指摘するように、むしろ日本の記紀神話は、印欧(インド・ヨーロッパ)語族系神話により類似しており、非韓国的であることは明白です。地理的近さだけを基準にするならば、真実は遠ざかる一方です。 学問は手段にすぎない韓国 これまでの事例からも明らかですが、韓国では学問はあくまでも手段にすぎず、学問そのものが目的とされたことはありません。高麗時代から始まったらしい科挙は、学問の手段化を決定的なものにしたはずですが、科挙は李氏朝鮮時代崩壊まで続きました。学問が単なる手段でしかない朝鮮では、その精神は芸術領域にも及び、芸術(文芸、絵画、書、工芸など)そのものが目的として受容される、つまり芸術そのものを純粋に楽しむという精神的風土が育たたぬまま、最後の王朝の衰滅にまでいたりました。事実、朝鮮では科挙合格のために両班(ヤンパン)たちは猛勉強をつづけましたので、巧拙を別にすれば、漢詩を作る能力のある人は大勢いたはずですが、にもかかわらず、朝鮮を代表するような漢詩人やその作品集は残されていません。絵画や書や工芸などについても同様です。 中国でも長い間科挙制度が続きましたが、あらゆる領域の学術や芸術が、質量ともに世界的に見ても高水準なものを、少なくとも明王朝ぐらいまでは途絶えることなく産出してきました。中国では、学問や芸術を単なる手段とはみなさず、学問研究を通して真理を探究すること、すなわち学問そのものを目的とすることが当然のこととみなされていたからだと思われます。今でいう芸術についても、芸術作品そのものを愛で、楽しむという精神風土が連綿と続いてきています。秦の始皇帝は焚書坑儒という思想統制を実施しましたが、これはおそらく例外であり、秦王朝は短命に終わりました。世界文明発祥の地の一つであり、漢字を発明したという不動の文化的伝統が中国の世界的水準の学問的、芸術的土壌を確固として支えてきたのだろうと思います。 現在の中国政府は学問、芸術に対する強力な思想統制を実施していますが、学問、芸術を単なる手段としてみなさない社会では、学問や芸術の華々しい展開はありえず、社会の創造的発展もおそらく達成不可能でしょう。朝鮮で1000年以上も続いた学問・芸術の手段化思想は、朝鮮を惨憺たる社会に陥れました。しかも現在の韓国にもその思想は強固に受け継がれており、韓国社会の精神的風土を狭小でいびつなものにしています。韓国人には自らの頭で創造的に考えるという能力が乏しいのも、その反映です。学問は単なる手段でしかない韓国では、事実や資料を丹念に精査して真実を発見するという、学問が本来有する喜びとは無縁です。学問は「目的」に対して手段として奉仕するものでしかないので、事実や資料の精査などは全く無用でしかありません。 朴裕河氏が出版した「帝国の慰安婦」への官民あげての異様なパッシングは、韓国では今なお、学問は政治的目的の手段にしかすぎないということを如実に示しています。同書パッシングの理由は、様々な資料や慰安婦当人からの丹念な聞き取りを基に書かれたこの著書が、慰安婦問題を対日外交交渉の最も有力な武器にするという、韓国政府の目的に反していたからです。資料を精査して、日本の植民地下で韓国は近代化され、経済的にも発展したことを、データを示して指摘したソウル大の経済学部教授は、言論によるのではなく、文字通りの官民あげての暴力的弾圧で、口を封じられています。一事が万事、韓国では官民あげてこの手法で言論を統制してきました。 日本の大学には、こんな韓国から多数の教授がやってきています。しかも東大、京大、早慶、九大という日本のトップクラスの大学にはわざわざ韓国研究所という韓国に特化した研究所まで作られ、その分、日本の税金が特例的に配分されています。韓国には古い文献は存在しませんので、「研究」の対象はもっぱら現代です。おそらく「近代」も研究対象から除外されているはずです。というのは、これらの研究所で、日韓の長年の懸案になってきた韓国に対する日本の植民地支配や従軍慰安婦問題の実態に迫ろうという研究は皆無だからです。九大には植民地時代の朝鮮のモダンな建造物や街並みを映した古写真が多数保管され、公開されていますが、それらの写真を使って、植民地前の朝鮮との対比で、日本の植民地経営が欧米とは全く異なった、韓国の近代化と発展に多大に寄与したものであったとの分析、研究は全くなされていません。植民地前の写真が一枚も公開されていないことで、あたかも韓国が自ら写真のような近代的な建物や街並みを造ったかのような捏造操作さえ疑われます。 また数年前に、戦時下の東南アジアの慰安所で管理人をしていたという韓国人が書いた「慰安所日誌」が発見されました。日本にいくつもある韓国研究所には、何人もの韓国人教授がいるはずですが、慰安婦問題研究の資料としては、韓国人自らの手になる唯一無二の、希少、貴重なこの「日誌」を解読し、分析研究したところも皆無です。韓国人教授は日本の税金を使って日本の大学にいるのであれば、日韓双方にとって、共同研究の対象としては非常に貴重なこの資料を提供すべきですが、資料を提供した韓国人教授は皆無です。漢字とかなとハングル交じりで書かれたこの「日誌」は、日韓が共同で解読するには格好の資料ですが、それすらできないとは、何のための韓国研究所なのか。 この「日誌」を発見した韓国の大学の教授が神戸大学の教授と共同で「日誌」の解読、研究を始めましたが、頓挫しています。おそらく韓国政府に公開が禁止されたのだと思われます。この「日誌」には、韓国政府が主張する慰安婦問題を完全に否定する内容が書かれているからです。韓国では、学問は政治の手段にすぎず、政治の目的に従わない学問は学問ではない。こんな韓国から大学教授を招くことは、日本の学術研究の水準を落とすだけで、プラスになることは皆無です。 にもかかわらず、韓国人教授が多数、日本の大学で教えています。外国人留学生のみならず、外国人教授の数が多ければ多いほど評価が高くなるという、非学問的な基準によって作られている世界大学ランキングが圧力として作用した結果だと思われます。日本の大学の文系で外国人教授を増やすには、韓国人教授を招く以外には方法はないからです。それに連動するものなのか、日本固有の動きなのか、2000年前半に大学の設置基準が緩和され、少子化が進む中、大学の数だけが増えるという政策が実施されましたが、当然のことながら大学教員の採用基準も大幅に緩和されました。大学の教員の資格は、幼保小中高のような国が定めた明確な資格制度はありませんが、大学教員にふさわしい専門的学識の有無を証明する論文などの研究成果保持者であることが大前提となっていました。しかし大学設置基準が大緩和された結果、その大緩和策は教員採用にも及び、論文の内容が問われないどころか、一編の論文すら書いたことのない人物でも大学教員になれるという事態が生まれました。 目下、大問題になっている文部官僚の早大への天下りは、大学教員採用基準の大緩和によってその土壌が作られたものです。従来のように、大学教員としての能力を証明する論文などの明確な研究成果を示さない限り、採用されないという絶対的な不文律が存続していたならば、大学が官僚の天下り先になるという亡国的事態は生まれなかったことだけは明瞭です。官僚でも、優れた研究成果を上げている専門家であることが論文などで証明されているならば、大学教員として積極的に採用すべきですが、昨今の 大学への天下り官僚のほとんどは、官僚であるという以外の履歴は皆無であったのではないかと思われます。一般企業への天下りとは異なり、大学への天下りは、教育の基盤を破壊する亡国的事態ですが、同様の事例は文科省のみならず、他の省庁にも及んでいるとのことですので、その悪影響は甚大です。 江戸時代の科学 外国人教員の採用でも、おそらく同様の大緩和された基準で採用されているのだろうと思われます。学術的基盤の破壊の影響は、文科省が、朝鮮通信使は日本に先進文化をもたらしたという、韓流捏造史を認めるまでに至っています。しかし日本は鎖国をしていた江戸時代にあっても、オランダを通じて西洋文明の移入を続けていました。武芸・学問・殖産興業を奨励すべく享保の改革を実施し、江戸幕府中興の祖と呼ばれる8代将軍徳川吉宗は(在位1716〜1745年)、鎖国を続けながらも、西洋文明を積極的に摂取すべくオランダ語の習得を奨励する一方、オランダのみならずドイツからも技術者を招聘し、馬の品種改良にまで力を入れたという。しかも西洋馬を数回オランダ船を使って輸入してまで、馬種改良に力を注いだという。その資料は現在も現存するそうですが、当時にあっては、馬は現在の自動車や電車に相当しますので、その慧眼には驚かされます。 さらに吉宗は、オランダ商館から万治2年(1659年)にドドネウスの『草木誌』、寛文3年(1663)にヨンストンの『動物図説』が幕府に献上されたものの、蔵に眠ったままであったものを翻訳させ、『阿蘭陀本草和解』として刊行させたという。この両書の翻訳本は、日本の本草学・博物学に多大な影響を与え、日本の学術水準の向上に多大な貢献をなしたという。こういう施策が実施されたのは、吉宗が西洋文明の先進性とその実態を詳細に把握していたことを示しています。 日本初の西洋の医学書の翻訳本「解体新書」が発行されたのは吉宗没後の1774年のことですが、本書は前野良沢、杉田玄白ら蘭学者7名によって、ドイツの解剖図譜のオランダ語本「ターヘル・アナトーミア」を翻訳したものでした。その他にも、江戸時代にはオランダを通じて、驚くほど大量の西洋文明の摂取がなされていたことが、国立国会図書館の江戸時代の日蘭交流に詳細に紹介されています。日本人必読の資料が満載です。 当然のことながら長崎のみならず、日本各地に蘭学塾が生まれました。有名な緒方洪庵の適塾は大阪大学医学部の前身です。東大の前身も蘭学塾に発しています。その他の関東や東北地方にまで蘭学塾は波及しています。1804年、華岡青洲(和歌山県)は、世界初の麻酔薬を使った外科手術に成功しています。和歌山身の故有吉佐和子さんの小説『華岡青洲の妻』は、その成功に至るまでの凄絶な苦闘を描いたもので、出版時ベストセラーにもなりました。 こういう事例は挙げればキリも果てもありませんが、志筑忠雄(中野柳圃)によって、オランダ語からの翻訳でニュートンやケプラーの理論が紹介されたという。志筑忠雄は、ニュートン物理学を講じたイギリスのオックスフォード大学教授カイルの著書『求力法論』のオランダ語版を邦訳したそうですが、彼は、現在も物理用語として使われている引力、重力、遠心力、速力、分子、空間など多数の新語を考案したという。意味を十分に理解したこれらの用語は、現在も物理用語としてそのまま使われていことからも、その正確さ、理解の深さには驚かされます。 その後、志筑忠雄は、『暦象新書』という自らの著書を刊行し、ニュートン物理学、西洋物理学の精髄を紹介したという。彼の業績を紹介した「大人の科学net」の江戸の科学者列伝の『暦象新書』の解説によれば、「寛政十年(1798年)に成立したこの上・中・下七冊本は、忠雄がカイルの著作に自説を加えて著述したものである。この中で彼は、コペルニクスの地動説、ニュートンの作用反作用の法則、万有引力の法則、慣性の法則、ケプラーの法則、楕円運動、真空、屈折の法則など、近代科学の主要な法則や概念について詳細に述べている。」という。ただ、ただ驚嘆の一語あるのみ。 なお志筑忠雄の関連資料は、早稲田大学図書館所蔵とのことですが、韓国人に盗まれぬよう、くれぐれも注意していただきたい。志筑忠雄は、これほどの偉業を成し遂げていたにもかかわらず、なぜか日本では一部の専門家以外には全く知られていません。無名の偉業は、捏造歴史の材料にもってこいです。 弊社刊の大庭景利・安田雄平現代語版共訳の大庭雪斎『民間格致問答―幕末の自然科学入門書』は、佐賀の蘭学者大庭雪斎がオランダの科学入門書を邦訳した『民間格致問答』を現代語に翻訳し、出版したものです。本書は江戸幕末の1861年〜1865年に、一般庶民向けに邦訳された西洋科学の入門書。雪斎は佐賀藩の御典医であったが、佐賀藩が1851年に設置した蘭学塾(医学寮、のちに好生館と改組)でも蘭学を教授。大隈重信も雪斎に蘭学を学ぶ。訳書は他にも、オランダ語文法書『訳和蘭文語』全5冊 など6種あるという。なお1834年に医学寮として発足した好生館は、現在、佐賀県立医療センタ―好生館として、幕末からつづく183年に及ぶ歴史と伝統を、途絶えることなく受け継いできているという。 現在の日本の科学技術が世界的にみても最先端を走っているのは、鎖国中の江戸時代においてすら、当時の世界最先端の知見を見誤ることなく積極的に移入、摂取してきたことに起因していることを我々はしかと認識すべきです。蘭学塾が、日本を代表する大学の前身であったことは、その証の一つであるというべきでしょう。 日本は鎖国下にあっても先進文明であった西洋文明を積極的に摂取していたわけですが、世界帝国中国の清王朝は、かつての栄光復興には力を注ぎましたが、西洋文明の先進性を理解する能力には不足していました。韓国は論外ですが、西洋文明に対する認識の差がその後の日中の近代化の成否につながったことは言うまでもありません。そしてその差は、社会体制の違いとも絡み、現在にまで及んでいます。しかし朝鮮通信使の異様な捏造評価は、日本の江戸時代の文芸、芸術分野のみならず、学術面においても韓国には全く無縁の、非常な先進性に満ちていたという事実を完全に隠蔽するものです。その文化的、政治的影響は、今現在の日韓関係にまで及ぶことを、韓国の旗振り役に狂奔している一部日本人はとくと認識すべきです。 なお、好生館には、幕府の招聘により1855年に来日して、日本初の西洋医学校と西洋式病院を建てたオランダの軍医ポンペの、オランダ語で書かれた病理学書の写本が保管されています。表紙は漢語、中身はオランダ語そのままの写しです。韓国人に盗まれぬようにくれぐれも注意していただきたい。 日本国内では、ポンペとはもっともゆかりの深い長崎市が、ポンペの名を隠蔽しているどころか、その名が知られることを妨害までしていることには非常な不可解さを感じていましたが、その背後事情、理由がやっと分かりました。機会をうかがい、火事や地震等、手段を選ばず、好生館保管のポンペの病理学書写本を盗み出し、この写本を証拠に、韓国でも西洋医学を学んでいたとの捏造話を企んでいたものと思われます。ポンぺの名と日本との関係やその事績が広く知れ渡ってしまうと、こうした工作もやりにくい、というわけです。長崎市がそこまで認識していたかどうかは分かりませんが、陰ながら協力していたことは紛れもない事実です。以前にもこの件は紹介しましたが、疑問の輪がやっとつながりました。 古代の日中韓 本号最後に、古代の日中韓の関係を年表的にまとめ、専門家の間にまで広まっている、遣唐使派遣が始まるまでは日本は朝鮮から先進文化を得ていたという、昨今流布している謬見への批判としたい。 福岡県糸島市で発見、発掘された平原弥生遺跡からは、大量の美々しい宝物類が出土していますが、日本最大の大きさを誇る大鏡を含め銅鏡39面も出土しています。この遺跡の発掘責任者であった原田大六氏のまとめた、原寸大の銅鏡写真付きの、弊社刊『平原弥生古墳』によれば、この銅鏡のうち32面は中国の漢中期と漢後期の舶載鏡(中国で作成された鏡)だという。日本で模造して作られたホウ(ギョウニンベンに「方」)製鏡が4面、残る3面は、破片からの復元が未完成らしく不明のよう。原田氏の死後、残る3面の復元がなされ、鏡の総数が1枚減少したとの話も聞いた覚えがありますが、不確かなので、ここでは原田氏の分類どおり、3面は不明としておきます。 しかも驚くべきことには、中国漢代に作られた舶載鏡32面のうち、20面に「尚方作キョウ(金ヘンなしの「鏡」)」との銘が入っていたという。「尚方」とは漢の宮廷直属の青銅器鋳造所だという。つまり、平原古墳に埋納されていた尚方作鏡とは、当時の倭国と漢王朝との繋がりの並々ならぬ親密さを証明していることになるわけです。原田氏も漢王朝と直接交流していたことを物語る重要な資料だと指摘しています。考古学や歴史の専門家はこの事実を知っているのでしょうか。 漢王朝は、前漢BC202〜AD8年 後漢AD25〜220年 紀元前後の弥生遺跡からは前漢鏡がいくつも出土しています。 57年 奴国が後漢に朝貢し、光武帝より「漢倭奴国王」の金印を受ける。(後漢書)中国王朝の支配を受けない異民族でこの金印を受けたのは倭の奴国王のみ。 後漢の年号「中平」(184〜190年)の銘のある純金製の象嵌太刀が、奈良県天理市の東大寺山古墳から出土。純金製の太刀はきわめて稀だという。 107年 倭国王、使者を送り、後漢の安帝に生口(奴隷、あるいは捕虜)160人を献上。(後漢書) 184年 魏志倭人伝に倭国の大乱記す。 222〜280年 中国の呉(222〜280年)の紀年銘のある銅鏡が、山梨県のきつね塚古墳より出土。 239年6月 倭国の卑弥呼、使いを魏に送り、男女の生口10人、班布2匹2丈を明帝に献上。 12月 明帝、卑弥呼に「親魏倭王」として金印紫綬をさずけ綿、刀、銅鏡100枚など大量の土産物を授ける。さらに使いの難升米らに役人としての位をさずける。(魏志)・・・大量の土産物には2種類あり、卑弥呼の献上品の価値がいかほどかを示す返礼品(模様入りの錦5匹、毛織物10張、濃い赤地の織物50匹、紺青50匹)と、特別に下賜された品(紺地の句文錦3匹、細斑華ケイ5張、白絹50匹、金8両、五尺刀2口、銅鏡100枚)・・・日本語訳は、弊社刊、いき一郎編訳『中国正史の古代日本記録』(1320円+税)を参照。 大阪府の黄金塚古墳や群馬県の芝崎古墳からは、魏の紀年銘のある銅鏡が出土。 240年 帯方郡(朝鮮半島に置いた中国の直轄地の一つ)の太守が倭国に使いを派遣して、倭王に対し詔書とともに錦・刀・鏡などを賜う。倭王その使いに託して、上表して詔恩に答謝す。(魏志) 243年 倭王、8人の使者を魏に派遣して、生口、倭錦、綿布などを献上。(魏志) 245年 魏の少帝、倭の難升米に黄ドウ「巾に童」(軍旗)を賜い、帯方郡に託して与えた。(魏志) 247年 倭の女王卑弥呼、帯方郡に使いを派遣し、狗奴国との交戦を告げる。魏の少帝、使いを倭に派遣し、詔書・黄ドウ(軍旗)を難升米に与え、檄文をもって告諭す。(魏志) 248年 卑弥呼没す。埋葬の様子を詳細に記す。(魏志) 卑弥呼没後、男王を立てたが、国乱れ、卑弥呼の宗女壱与を女王に立て、国治まる。 壱与、魏に20人の使を遣わし、男女生口30人、白珠5000孔、青の大句珠2枚、異文雑錦20匹を献上。(魏志) 266年 倭の女王、西晋に使いを派遣して入貢す。(日本書紀・神功紀66年条) この後、次の広開土王碑文の記録を挟みながら、 391年 倭軍渡海して百済、新羅を破り臣民にする。(広開土王碑銘) 366年以降からは、日本書紀にも登場する、日本の圧力を受けた百済、新羅との往来の記述が始まりますが(倭国は高句麗も攻めましたが、高句麗の攻略には失敗)、朝鮮諸国との往来が始まるまでは、日本は中国とは非常に密な関係を築き、直接中国との交流を続けてきたことは、以上列記したような、日本出土の銅鏡の記銘や中国正史の記載からも明白に証明されています。 中国との直接交流を示すこれらの記録からは、朝鮮との交流が始まる数百年も前から、日本は中国から様々な文物の移入を受けていたことは明白です。中国語である漢字、漢文を習得した人々が倭国にいたことも言うまでもありません。高価な珍品持参で中国の帯方郡から派遣された使者に対して、倭王がその使いに対し、感謝の答礼文を即座に上表(文書で天子に申し上げるという意味。)したということは、それを明白に証明しています。百済から派遣された王仁が初めて日本に漢字をもたらしたというのは、事実に反します。 百済、新羅との交流が頻繁になった後も、倭国は中国への朝貢は続けていました。弱小国に対しては朝貢を強要し、強国に対しては朝貢。今も昔も変わらぬ外交の現実というべきか。 413年 倭国、東晋に朝貢、武帝より除授の詔賜る。(晋書) 420年 宋建国。 421年 倭王讃、宋に朝貢。(宋書) 425年 倭王讃、司馬曹達を派遣して、宋文帝に上表して方物を献上。(宋書) 430年 倭国王、宋に使を遣わし、方物を献上。(宋書) 438年 倭王讃没し、弟珍立つ。珍、使者を遣わし、使持節、都督倭、百済、新羅、任那、加羅、秦漢、七国諸軍事安東大将軍倭国王と自ら称し、宋に朝貢。(宋書) 443年 倭王済、宋に使を遣わし奉献し、珍を安東大将軍倭国王の称号を与えられる。(宋書) 451年 倭王済、宋文帝より使持節、都督倭、新羅、任那、加羅、秦漢、六国諸軍事安東大将軍倭国王を賜る。また使23人に軍郡を与えられる。(宋書)・・・倭王済は、443年の安東大将軍倭国王に加え、朝鮮の六国諸軍事権(統治権)も中国皇帝に公認されたということ。 460年 倭王済没し、子の興が宋に使を遣わし、方物を献上。(宋書) 462年 宋の孝武帝、興に安東大将軍倭国王を授与する。(宋書) 477年 倭国王、宋に使を遣わし、方物を献上。(宋書) 478年 倭国王興没し、弟武立ち、使持節、都督倭、百済、新羅、任那、加羅、秦漢、七国諸軍事安東大将軍倭国王と自ら称す。倭国王武、宋に遣使して方物を献して上表する。宋の順帝、武に使持節、都督倭、百済、新羅、任那、加羅、秦漢、七国諸軍事安東大将軍倭国王を授ける。(宋書)・・・父祖の功績と父兄の志とを述べ、中国皇帝への忠誠を誓いつつ、高句麗の無道を指摘し、朝鮮半島の統治権をも含めて、自らに強い権限を与えることを求めた武の上表文は名文で有名。 上記年表どおり、400年代初頭は、倭国は東晋に朝貢しますが、420年に宋王朝が成立した後は、有名な倭の五王(「記紀」には登場せず。)が代を継いで宋に朝貢します。日本(倭)は古代においては、朝鮮諸国を統治していたことは、倭の五王の中国への朝貢事績からも明らかです。 一方、この間も倭国は百済や新羅に対しては朝貢を求めますが、求めるばかりでありません。援助もしています。 512年 日本は百済に筑紫馬40匹を贈る。(日本書紀)・・・「日本書紀」によれば400年代に百済から馬2匹が贈られますが、これを根拠に、韓国人は百済が騎馬の技術も日本に伝えたと主張しますが、この筑紫馬40匹は、百済馬2匹が増殖したものではないのは明らか。 522年 中国より仏教伝来。天皇が直接受けたものではないとのことで、仏教の私伝とされている。(扶桑略記) 538年 百済より仏教公伝。(日本書紀) 548年 日本より、百済に370人を派遣して築城を助ける。(日本書紀) 550年 日本より、百済に矢30具(1500本)贈る。(日本書紀) 551年 日本より、百済に麦種1000石を送る(日本書紀)。 553年 百済、日本に対し、軍兵の派遣と弓馬を乞う。(日本書紀) 554年 百済の要請を受け、兵1000人、馬100匹、船40隻を派遣すると返答。日本と百済、新羅と戦う。(日本書紀) 頻々となされる百済からの朝貢はあまりにも数が多いので省略。この戦いの後も、新羅は日本に何度か朝貢使を派遣してきますが、日本側は二度連続して朝貢を拒否して、貢物も受け取らないという場面も登場します。古代にあっても外交関係は複雑に展開します。 600年 初の遣隋使派遣。614年まで5回派遣。 618年 隋が滅び、唐が建国。 630年 第1回遣唐使派遣。以下、894年に派遣が廃止されるまで20回派遣される。 660年 唐と新羅が百済を滅ぼす。 663年 百済救援のために出陣した日本は、唐と新羅の連合軍に大敗(白村江の戦い)。百済滅亡。 668年 唐が高句麗を滅ぼす。 以降、唐が朝鮮半島を直轄統治。 676年 新羅が朝鮮半島を統一。 統一後も新羅は日本に朝貢使を派遣。 800年代後半には、新羅は海賊と化してしばしば日本を襲来。 後には、日本の倭寇が朝鮮を襲う。
素人が資料を見ながら書いておりますので、不足や不備は多々あるかと思いますが、素人があえて異議を唱えざるをえないほどに、昨今、日本で流行している韓流歴史の偏波さ、皮相さ、幼稚さは余りにもひどい。マスコミはもとより、日本の専門家までもが韓流の皮相さに汚染されていることには、日本中が危機感を持つべきではないかと思います。素人の私のこの批判が、蟷螂の斧に終わらぬことを切に祈っております。 *トランプ大統領 大統領就任という記念すべき日から、さっそく激しいメディア批判。しかも恫喝的に。就任式に辞任を求める超異例の大規模デモ。反発したくなる気持ちも分からなくはありませんが、独裁国家の独裁者でも、ここまで露骨に批判者を攻撃する例はめったにないはずです。トランプ氏は勝者とはなったものの、投票数では敗者クリントン氏よりも200万票も少なかったという現実を受け入れ、もっと謙虚に、もっと理性的になるべきではありませんか。わめきちらす大統領は、ただ見苦しいだけ。 早々にオバマケアを廃止しましたが、貧者の支持で大統領の座を射止めたというのに、貧者の医療をどうサポートするのでしょうか。 アメリカ第一主義の雇用増策により、日本企業も攻撃の対象にされていますが、アメリカは世界を巻き込んだグローバリズムを自ら推進し、金融資本主義による世界支配を狙っていたのではありませんか。金融資本は雇用増にはほとんど貢献しませんが、少ない労働力で、時には、あるいはしばしば国内外の製造業をも餌食にしながら、そして国家そのものまでをも標的にしつつ、超巨額の利潤を上げてきました。アメリカの金融資本ほど、超巨額の利潤を上げた金融資本は、日本はもとより、EUにも存在しないはずです。その超巨額の利潤の陰で、あまたの企業が倒れ、あまたの人々の命が失われたことも考えるべきではありませんか。その反動がアメリカでも起こり、トランプ大統領を誕生させたのですが、新大統領は、その金融資本の王者たちをも政権に迎え入れています。 *五輪 以前五輪について取り上げた際、ロンドン五輪の予算は3兆円と書きましたが、2兆円だったという。お詫びして訂正します。この2兆円で、ゴミ捨て場同然と化していた町全体を全く新しく造り変えただけではなく、五輪終了後は、選手村を3000戸の貧困者向け住宅に改造したという。住宅はアッというに間に満杯。そこで、新たに貧困者向け住宅が建設されているという。NHKラジオの五輪特集で知りました。イギリスでは、公共のための政治が貫徹されています。 日本では無駄な公共事業に延々と巨額の税金が投入されてきました。その最たる例の一つが諫早湾の干拓事業です。耕作放棄地が大量に存在し、米の生産調整(減反)が延々と続けられてきた中で、わざわざ海を埋めたててまで農業用地を造成する必要性は皆無です。しかし日本では、必要性皆無の事業に巨額の税金が投じられてきました。その結果、漁業被害が発生し、漁業者は多大な影響を被っています。 まったく不必要な農業用地のために、漁業者が追い出されるという事態にまで立ちいたっています。日本は公共事業は政治家の利権のためであることが第一義となっています。政治の公共性など無縁に近い。同じ民主主義国家とはいえ、なぜこれほど日英には差があるのか。 *福島避難民いじめ問題 前号で横浜市で発生したいじめ問題を取り上げた際、500万円もおごらされていたと書きましたが、150万円の誤りでした。訂正してお詫びいたします。しかし150万円でも巨額です。小学生が150万円もおごらされていたことには、何ら問題はないと判断する感覚は全く理解不能。異常です。 |
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