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出版お知らせ 2017/12/1 |
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久本福子Yoshiko Hisamoto 『貨幣の謎とパラドックス―柄谷行人論・原理論編』を出版 久本福子著 この度、久本福子著『貨幣の謎とパラドックス―柄谷行人論・原理論編』を出版いたしました。
ただ、諸般の事情により、Amazonのオンデマンド出版から著者本人の個人出版という形での出版となりました。新刊を全く出版しない中で、代表者本人の著書ばかりを出すのは出版社としての体をなしません。もうすでに一般的な出版社としては逸脱しすぎた日々を送って久しいのですが、これ以上の逸脱はためらわれました。 逸脱ついでに葦書房から出せば、全国どこの書店さんでも販売していただけますが、前回出した『福島原発事故と巨大地震』はほとんど売れず、在庫の山。この在庫の山を見ると、同じようなことはできないという思いの方がはるかに強くなります。葦書房としてオンデマンド出版をすることも可能でしたが、出版社としてオンデマンドを利用するには様々な条件がありましたので、個人出版という形になりました。この形態ではAmazonでしか販売できないという制限があり、読者の皆様にはご迷惑をおかけすることになりますが、やむをえない選択であったことをご理解いただきたく存じます。にもかかわらず、葦書房のサイトを使って拙著のご紹介をいたしますことは、まことに勝手ではございますが、どうぞご容赦ください。 本書は、以下に引用しております「はじめに」も書いておりますように、2000年に東京で設立した、エディタ−・ショップという出版社から出版しました『柄谷行人論』を基にしたものですが、内容的には新著に等しいほど、大幅に改訂したものです。より分かりやすく、より熟考した推敲を重ねるとともに、今という時代に対応した論へと展開させた結果、文字数も旧著の倍以上に増えています。 ただ、旧著もかなり売れました。これはひとえにタイトルにある「柄谷行人」という名前の効果によるものであったことはいうまでもありませんが、1,2ヶ月で一つの書店だけで100冊も売れた例もありました。開設したばかりの出版社から出した、全く無名の書き手の本が、広告も出さず、新聞等の書評でも取り上げられることもない中で、書店に置いていただくだけでは、1冊、2冊売るのも大変なことは言うまでもありません。しかし旧著の『柄谷行人論』は、例外的に売れました。都内を中心に、北は北海道から南は鹿児島までの大学生協を含む主要書店54店に、各店とも5冊以上納品させていただきましたが、返品は1店の2冊のみでした。中には100冊も売れた書店さんもありましたが、その他にも数店の書店さんからも繰り返し、追加注文もいただきました。 なぜそんなに売れたのか。その理由はやはり「柄谷行人」という名の効果による以外には考えられません。柄谷行人氏ご本人は非常に著名な批評家で、その著書も思想・評論分野では例外的にベストセラーを続けておられるほどに読者の多い批評家、思想家ですが、不思議なことに、まとまった「柄谷行人論」はほぼ皆無に近い。おそらく拙著は、単行本としては初の「柄谷行人論」だったと思います。その希少性も売上げ加速化に貢献したものと思いますが、そこに加えて、多少なりとも拙著の内容に関する口コミ効果もあったのではないかと思います。読むに堪えないほどの内容であれば、いくら希少性があっても売れるはずはありませんので、読むに堪えうる「柄谷行人論」であったのだろうと思います。 さらに我ながら驚きましたが、アメリカの世界的にも有名な三つの大学からも、旧著の出版時に注文を受けました。言うまでもなく、「柄谷行人」という名前による効力です。柄谷氏はアメリカの大学でも教えておられましたが、三つの大学から注文がくるとは、アメリカでもよほどその筋では著名であったのだろうと思います。 しかし、旧著『柄谷行人論』はそれほど売れたにもかかわらず、なぜか、マスコミなどの書評では全く取り上げられませんでした。不思議でなりませんが、当時わたしはエディター・ショップのHPで、朝日新聞を筆頭にしたマスコミ批判を展開しておりましたので、マスコミに嫌われていたのも無視された理由だったのかもしれません。実は、旧著『柄谷行人論』にはそうした時事批評が半分近くを占めており、純粋の「柄谷行人論」は、全体の半分ぐらいです。厳密にいうならば看板に偽りありということになりますが、新著は100%純粋の「柄谷行人論」です。 ちなみにエディター・ショップの取次との取引きで使用するコードナンバーは「エ0135」となっていましたが、実は「0135」は葦書房の取次コードであることが、後にわたしが葦書房の代表に就任して以降、初めて知り、驚きました。当時の葦書房の代表であった三原氏が承知していたのかどうかは不明ですが、わたしの知らぬ間に、エディタ−・ショップはまるで葦書房の子会社のような扱いになっていたわけです。 当時はまさかその葦書房の代表に就任することになろうとは夢想だにしておりませんでしたが、今や余命そう長くはない葦書房の代表を務めながら、『柄谷行人論』の大改訂版の新著を出版いたしました。不可思議な巡り合わせです。 しかし新著『貨幣の謎とパラドックス 柄谷行人論・原理論編』は、質量ともに旧著よりはるかに充実しております。加えて、柄谷行人をその著作物の中だけで論じたものではなく、今現在進行中の時代の動きを射程に収めつつ、柄谷理論の検証をも試みておりますので、世界を読み解く上での、非常に実践的なヒントも満載です。 ただ旧著を出版しました17年前とは、時代相にかなり変化が生じているように思います。思想、評論といった硬派の出版物やその著者の、社会的な影響力はかなり弱まっているように思われます。しかしむしろ、17年前よりもはるかに世界的に混沌の度が増している現在、時代を読み、世界を読み解く力のある思想の登場を渇望する潜在的な欲求は、おそらく減じるどころか増大しているはずです。日本はもとより世界中で、即効性のあるハウ・ツー物的な「思想」が消費されるばかりで、この潜在的な欲求に答えうる思想は未だ登場していません。 現在は、旧著の頃とは異なり、「柄谷行人」という名前だけで売れるような知的基盤も破壊されてしまっていると思いますが、そうした状況下だからこそ、あえて柄谷行人で世界を読み解く試みも意味があるのだと思います。ハウ・ツー物ではない原理的な思想が、いかに人の歩みを支える強力な杖となりうるのかが、拙著によって実感していただけるものと確信しております。 ただ、現実的な問題では、わたしは柄谷氏とは真逆の立場に立っているのも事実です。単純に分類するならば、柄谷氏は明らかに左であり、現在のわたしは明らかに右に属しています。例えば憲法問題でみるとその違いは明らかです。柄谷氏は『憲法の無意識』(岩波新書)において、憲法9条を哲学として読み解き、護憲以外に日本の選択はないということを明確に提示しています。その破天荒な憲法の読み方には驚き、かつ刺激を受けましたが、憲法9条は変えるべきだとのわたしの考えには、いささかも変化はありません。 しかし柄谷氏がその著書を通して提示した世界認識の基本的な原理の受容には、政治的な立場の違いはいささかも障害にはなっていません。その理由は、下に引用しております「はじめに」と「あとがき」に書いておりますが、詳しくは是非とも拙著をご覧いただきたいと思います。 ただ、Amazon(『貨幣の謎とパラドックス』)でしかお買い求めいただけないのが返す返すも申し訳なくも残念ですが、是非とも、一人でも多くの方に読んでいただきたいと念じております。電子書籍版も紙製本の半額で販売しておりますが、こちらもAmazonだけでの販売となっております。申し訳ございません。 以下に、「目次」「はじめに」「あとがき」を転載しておりますが、Amazon(『貨幣の謎とパラドックス』)では、第一章の途中まで中見検索ができます。(Android端末では中見検索はできないようです。) 久本福子著 ・並製/四六版/260頁/1944円(税込/本体価格1800円) ・電子書籍版 900円(税込) <目次> はじめに 7 第一章 貨幣の謎を解く
1 今昔の差異 12 2 楽は苦のタネ、苦は楽のタネ 17 3 ベースキャンプとしての「資本論」 27 4 貨幣の謎を暴露 31 5 剰余価値発生の謎 40 6 恐慌と資本の相関性 48 第二章 秩序とカオスのパラドックス 1 「知」の闘争 59 2 曖昧さを排除する批評的ポジション 65 3 背理の罠からの脱出 69 4 秩序とカオスのパラドックス 75 5 思考運動の下剋上 88 6 均質空間の発見と時間の階層化 92 7 時空概念の反転 99 8 不可視のテクストを読む 106 第三章 数学と貨幣 1 反復する歴史 113 2 禁欲としての「形式化」 119 3 極北でおこる思考のビックバン 129 4 理性による理性の吟味 143 5「形式化」の果ての解放 151 6 人工知能と人間の可能性 157 7 身体による脱構築 167 8 宗教的煩悶と「単独性」 175 9 文化と禁止 182 10 共同体と「不在の〈外部〉」 193 第四章 貨幣と資本のパラドックス 1 中国経済と金融資本 204 2 地域通貨の可能性 211 3 資本主義的パラドックス 222 4 仮想通貨と通貨の信用力 228
5 世界デジタル通貨の可能性 237
6 貨幣の基本機能への回帰
251 あとがき 259 はじめに わたしは二〇〇〇年七月に、エディター・ショップという出版社から、本書『貨幣の謎とパラドックス―柄谷行人論・原理論編』の基となった『柄谷行人論』を出版した。エディター・ショップはすでに閉鎖されているが、実はこの出版社は、著者本人であるわたしが福岡から上京して、二〇〇〇年四月に東京都新宿区に設立した出版社である。自分で作った出版社で自分の著書を出すというのは、余り例のないことだと思われるが、事情によりやむなくそのような成り行きになった。 ところが、エディター・ショップを始めて二年余り経った二〇〇二年九月、さらに事情により、福岡市にある葦書房という出版社の代表に就任することになった。エディター・ショップを閉じて福岡市に戻ったのであるが、小なりといえども本格的な出版社の経営は初めての経験である。待っていたのは、前任者が残した一億円余にも上る巨額の負債であった。以来、経営素人のわたしは、巨額負債との大格闘に突入した。 この巨額負債との大格闘という、わたしにとっては未曽有の過酷な体験は、わたしの思想、信条に大きな影響を与えたように思う。現預金が全く残されていない中で、山のように振り出されていた手形の決済が次々と襲ってくる。印刷費はもとより、家賃以外の業者への大口支払は全て手形。一年という超長期サイトの手形も含まれていたが、手形の決済ができなければ、即倒産である。倒産だけは絶対に避けたい。この一心だけで、わたしは巨額負債との格闘をつづけてきたのであるが、倒産だけはかろうじて免れたものの、命までは失わずに済んだという、ただひたすらな後退戦を余儀なくされた。 こうしたリアルな現実の過酷さに日々向き合わざるをえない人間にとっては、リアルさが世界の全てである。その現実の重圧は、リアルな現実と、同義語を重ねて表現するほかはないほどのリアルさであった。個人差もあると思われるが、こうした環境に置かれた人間にとっては、リアルな現実ではない世界は、理屈のレベルではなく、感覚的に受けつけられなくなり、無縁なものとして遠ざかるしかなかった。 こうした環境下で日々過ごすうち、わたしの外界的な関心はリアルな政治、経済に向けられ、柄谷行人に象徴されるような抽象的な理論や思想的世界は、わたしにとっては全く疎遠なものとなり、自分の書いた著書すらも思い出すこともなく十数年が過ぎた。 ところが二〇一五年の春、ある人物にお会いした折に、その方が、思いもかけず旧著『柄谷行人論』を話題にされたのである。わたしはこの瞬間まで、自分の書いた『柄谷行人論』のことなど思い出すことさえなかったのであるが、この人物との出会いは、ここ十数年の歳月の流れを一気に遡行するきっかけとなった。 この思いもかけない出会いを機に、わたしは自分のこの旧著が気になり始めた。しかし捜してみたが、どこにも一冊も残っていない。福岡に戻る時に三〇冊ほど持って帰ってきたのであるが、売れるものは何でも売ろうと思い、旧著も葦書房で代行販売したところ、短期のうちに売り切れた。品切れ後は注文も途絶え、注文の途絶後はわたしの記憶からも旧著は完全に消えてしまっていた。通常は一冊ぐらいは残しておくはずであるが、一冊ぐらいは残しておこうと考えもしなかったことも思い出した。売れるものはとことことん売り尽くそうという、現実の切実さの方が優先したのである。 幸い古本屋にはあったので、さっそく取り寄せて目を通した。顰蹙を買うのを恐れずにいえば、一読後、わたしは、自分の書いた本はこんなに面白かったのかと驚いた。ただしこの驚きは、旧著『柄谷行人論』の後半部に関するものである。実は旧著『柄谷行人論』は前半と後半に分かれていて、前半は、直接的には柄谷行人の著書とは全く無関係の、わたし個人の身辺に起こったさまざまな不可解事や、社会的事象をめぐる論評が収録されている。純粋の「柄谷行人論」は後半部分である。 うぬぼれもはなはだしいが、一読後、拙稿「柄谷行人論」を再び世に出したいとの欲求が湧き上ってきた。しかし、今の自分なら決してこうは書かないという乱暴な書き方をした箇所もあり、このままでは出せないとの思いもあった。また記述不足や不備のあることも気になりだした。そして何よりも、後半部の「柄谷行人論」だけでは一冊の本として出版するには分量が少なすぎる。乱暴な書き方をした箇所を削除するとさらに少なくなる。そこでかなりの改稿を重ねた。改稿を重ねた結果、最終的には骨組みだけは旧著を使い、全面改装をしたような大幅な改稿になった。分量も倍以上になり、本としての体裁保持も可能になった。 リアルな政治、経済問題以外には全く興味を持てなくなり、自著すらもうち捨てていたわたしが、全く断絶感を感じることなく「柄谷行人論」の改稿作業に着手できたことには、我ながら驚いている。この改稿を重ねるうちに わたしは柄谷行人の思想を、新たな地平において読み解く契機をも得ることができた。その新たな地平とは、次の数行に要約できる。 柄谷行人は、マルクスの価値形態論から、世界を読み解く万能の理論を生み出した。その理論はニーチェ、ソシュール、フロイト、ヘーゲル等の思想、哲学のみならず、幾何学や集合論などの数理論によっても濾過された、いわば裸形の理論である。わたしはその裸形の理論を柄谷行人の原理論と名づけ、この理論が、混沌とした世界を読み解く万能の理論たりうることを直感した。本書はその検証報告書である。 この検証作業を重ねる中で、柄谷理論で現実を読み解くとどうなるかとの問いが芽生え、その応用への試みとして「第四章 貨幣と資本のパラドックス」を書いた。四章が、三章までの目次とやや趣を異にしているのはそのためである。応用対象としたのは、共産党の一党独裁体制下で、特異な資本主義的経済システムを導入している中国と、従来の通貨の概念を一八〇度転換したといわれる、ビットコインを中心にした仮想通貨である。ビットコインを頂点とする仮想通貨は、発行者不在にもかかわらず世界中に流通しているが、貨幣、通貨の本質を考える際の、示唆に富んだ媒体として読むことも可能である。合わせて、柄谷行人が推奨してきた地域通貨の可能性についても考えてみた。広狭両面からの貨幣の検証である。 当初想定もしていなかったほどの、非常に広範囲に及ぶ改稿になったが、哲学や経済には全く素人の身を顧みずに、実感的読解力だけで書き上げた検証報告書である。 あとがき 十数年ぶりに柄谷行人の著作を読んだのであるが、抽象的な思考であるにもかかわらず、非常にリアルであることに正直驚いた。抽象的な思考、抽象的な思想は、抽象的であるがゆえに普遍性を有するということであるが、柄谷の著作群はこの真理を体現したものだと思う。 資本主義経済の行き詰まりが誰の目にも明らかとなった今日、誰もが即効性のある処方箋を求めがちである。この切実な求めに応じて、日本も含め、世界中で様々な処方箋が数多く書かれてきた。しかし未だ有効な処方箋は書かれていない。対症療法的な処方箋では対応できないほどに、世界を蝕む病巣は深いということでもあるが、病巣が深ければ深いほど、それら病巣の個々具体相からは一旦離れて思考する必要があるのではないだろうか。個々の具体相にからめとられている限りは、対症療法的な処方箋しか書けなくなるのは、ある意味当然である。 しかし例えば、資本主義の種々諸相を原理的に極め尽くした理論に立ち返って現代を分析するならば、一時的な対症療法ではない、真に有効な世界の見取り図を描くことも可能になるのではないだろうか。いかなる抽象的な理論も、具体に発しないものはないが、具体から抽象された理論は、我々の思考の自由を無限に拡張する。思考の自由とは、眼前の具体に拘束されずに思考しうる自由のことである。 わたしは久々に柄谷の著作を読み返しながら、彼の著作はこの思考の自由をとことことん極めることにあったということに、今さらのように気づかされた。ただNAM以降の柄谷は、この路線とはやや異なった方向を目指しているようにも思われ、正直なところ違和感を覚えていることは本文にも書いたとおりである。柄谷のこの新しい活動は、資本主義経済の行き詰まりを突破すべく、世界史的なパースペクティブにおいて理論構築を目指したものであり、対症療法的な処方箋とは次元を異にしたものであるとはいえ、この理論と、資本主義の矛盾を超克することを目指した実際的な実践活動とが有効に結び合い、かつ機能しうるのかどうかについてはわたしは懐疑的である。しかしNAM以降の柄谷の解読には、NAM以前の柄谷の解読は必須だと思う。本書は、その有効な手がかりとなるはずである。 二〇一七年一〇月一〇日
久本福子 Amazon
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