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葦の葉通信 39号 2018/1/16 |
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久本福子Yoshiko Hisamoto 2018年2月11日 ブログ「ふってん」を始めました。2018/1/22 政治・経済などを主にした「葦の葉通信」の大テーマからはこぼれ落ちる、つれづれなる思いをブログとして発信することにしました。「ふってん」は、昔WEBマガジンで使っていた名称ですが、「沸点」に由来します。第一回は、『火花」と『コンビニ人間』の書評です。本通信と合わせてご覧ください。 侵食される日本 昨年11月、糸島市にある伊都国歴史博物館で「古代出雲と伊都国展」が開催されていたので見てきたのですが、ここでも、「日本の歴史は韓国(朝鮮)が作った」との路線に沿った解説がなされており、ショックを受けています。展示は島根の荒神谷遺跡などから出土した、非常に多数の銅剣や銅鐸などが写真も交えて展示されており、見応えがありました。また九州地方では見かけたことのないような、洒落た文様のついた土器類などもあり、弥生土器の地域的多彩さに驚かされました。 ただ、埋葬に関する展示コーナーでは、納得しがたい解説がなされており、すべての印象が不快なものに変わってしまいました。弥生時代に古墳が急増したとの指摘がなされた上で、その理由について、島根側、伊都国側両者の解説が掲示されていました。島根側は、庶民の古墳築造が認められたからと解説していました。一方、伊都国側は、朝鮮半島から大量の渡来人が日本に渡ってきたのを受け、その渡来人のために築造されたものだと解説していました。つまり伊都国側は、古墳の急増は渡来人の急増によるものであったと解説していたわけです。しかし言うまでもなく、伊都国側の主張を裏付ける証拠はどこにも存在しません。伊都国歴史博物館が勝手に捏造したものですが、それが堂々と展示解説として掲示され、観覧者の洗脳役を果たしているわけです。おそらく、小中校生なども見にきているはずですので、その洗脳効果は計り知りません。 「魏志倭人伝」には、当時の日本の埋葬の風習も記録されていますが、それによりますと、一般庶民も死者を弔うに際しては、棺に遺体を収め、塚を築いて埋葬したと記しています。ただし卑弥呼が死去した際は、巨大な塚が築かれたことが寸法入りで記されていますので、女王や王が死去した際は巨大な古墳が築かれたようです。つまり卑弥呼が活躍した時代にはすでに倭国では、貴賤の別なく、死者を棺に収めて埋葬する風習が定着していたことが、中国正史に記録されています。その後に続く正史にも同様の記載があります。つまり伊都国歴史博物館は、「魏志倭人伝」すら読んだこともなく、ただ韓国側の根拠なき一方的な主張を鵜呑みにし、それを展示解説に書いていたわけです。 弥生時代に古墳が急増したのは、稲作農業の定着で食糧事情が劇的に改善し、人口が急増したことが唯一最大の理由のはずです。縄文人と弥生人の骨格が別人種のように異なっているのも、食糧事情の劇的変化とそれに関連した生活環境の劇的変化が背景にあるはずです。かつて、弥生人の骨格特性が縄文人と余りにも違うことから、弥生人は半島からの渡来人だとの説がまことしやかに唱えられていましたが、全く根拠なき説であったことは言うまでもありません。戦後70年間の食生活、生活環境の変化で、戦前と戦後の日本人の骨格は別人種であるかと思われるほどに変化したと、骨格の専門家が指摘していました。この変化は、生活実感としても誰もが感じているはずです。たった70年の間ですら、食生活や生活環境の変化で、同じ日本人だとは思えないほどに劇的に変化するわけですから、縄文から弥生への転換期の変化は想像を超えるものであったはずです。 自然採集を基本にしていた縄文時代から、稲作の栽培農業への大転換は、食生活はもとより、生活環境全般にも大転換をもたらす、生産の大革命であったわけですから、その激変度は、戦後70年の比ではありません。縄文人が消滅したのではないかと、一瞬誤解を生むほどの劇的変化であったはずです。実際、展示会によっては、縄文人、縄文文化の突然の消滅を示唆する解説すら目にしたこともありました。しかし縄文人は消滅したわけではなく、新事態に対応しつつ、日本人の祖先として生き延びてきました。 この大生産革命によって、縄文時代よりも弥生時代に人口が増加したのは必然でした。伊都国歴史博物館は、常識的に考えても分かる人口増の原因に目を向けることなく、朝鮮半島からの渡来人急増が、古墳急増の理由であるという大嘘を、平然と書いて、観客をたぶらかしています。 加えて、糸島地区には、756年から768年にかけて築かれた山城、怡土城跡がありますが、館内にはその大きな模型も展示されていました。怡土城の大きさは福岡ドームの200個分もあるという。巨大な山城が築かれたのは、外敵の侵入を防ぐためのものですが、解説には、何のために築かれたのか、肝心な点には全く触れていません。正解は、当時新羅が日本に攻め入ってくるとの情報が伝わり、急遽、天皇が築城を命じたのが始まりでした。 なぜこの肝心な点が隠蔽されているのか。言うまでもなく、当時の新羅が日本侵略をする可能性があったという事実が明らかになると、新羅(韓国)が先進文化を日本に伝えて、日本文化の繁栄に多大な貢献をしたという説が成立しなくなるからです。ただ、怡土城が想定したような新羅の日本侵略はありませんでしたが、その後、山城で防御するほどの規模ではないものの、新羅海賊が頻々と日本を襲いつづけ、各地の住民や平安王朝を悩ましつづけることになります。しかし新羅海賊についても、一切、公的博物館の展示には全く登場しません。一文字も目にしたことすらありません。 ところで正倉院御物の中に、「買新羅物解」という、日本の高級貴族からの新羅に向けて出された発注書(買い物リスト)が保管されています。鳥毛立女屏風図の下貼りに使われていた、いわば廃棄処分された書類だったのですが、今となっては非常に貴重な書類です。御物の品々を見ても分かりますが、当時の日本は、新羅人にとっては超上得意客であったであろうことは言うまでもありません。 朝鮮半島統一を統一した新羅時代、中国国内には新羅坊と呼ばれる新羅人居住区がいく つも形成されていました。中国で作られた産品を日本などに売り込む貿易業を国家的事業として展開するための拠点でした。百済や新羅は日本よりはるかに先進地域であったといわれており、新羅はその両地域を統一したにもかかわらず、なぜ自国の産品を貿易商品としては扱わず、中国の産品の仲介貿易を行ったのでしょうか。おそらく朝鮮国内では、輸出できるほどの産品を大量に生産する職人がいなかったからではないか。事実、朝鮮では日本統治時代以前には、自国産品を海外に輸出したとの記録は皆無です。 「買新羅物解」という買い物リストにある品々は、現在ではあたかも新羅で作られた物 が日本に輸入されたかのような解釈が横行していますが、「日本は韓国が作った」という韓国側の圧力がまだ顕在化していない頃に書かれた、弊社刊「はかた学2 古代の都市・博多」(1,320円+税)には、新羅坊の役割も含め、新羅使節や商人は唐物の中継貿易に携わっていたことが明確に書かれています。 新羅にとって中国は生産拠点でもあったわけですが、中国国内で内乱が起こり、さしもの唐の隆盛にも衰えが見え始めると、唐頼みであった新羅にとっては、死活問題となってきたはずです。新羅海賊が頻々と日本を襲い始めるのは、新羅で飢饉が発生したからだと言われていますが、中国国内が混乱し、中継貿易もままならなくなった時期と合致していることは偶然ではないと思います。新羅の主要な産業が中継貿易であったことからするならば、中国国内の混乱による原因の方が大きいのではないのか。 現在の日本の歴史界は、「日本の文化は韓国が作った」という韓国人の妄説に逆らうことを極度に恐れる雰囲気が蔓延しています。韓国人を怒らせると、「海外学術連携」ができず、予算が削減されてしまうからです。 朝鮮通信使に関しても、日本にとっては歴史的重要度は極度に低いレベルのものであるにもかかわらず、韓国側の過剰な宣伝に日本側も完全に呑み込まれています。九国博で、朝鮮通信使が讃(絵に添えられた詞)を寄せたとされている神農図を見たことがありますが、讃となるべき文字は一字も書かれておらず、ただ湾曲した線が数本書かれているだけでした。線のような字を書く人なのかといえば、「金世ケン」という自分の名前だけは、誰が読んでも分かる楷書で明瞭に書かれていました。朝鮮王朝の最高の知識人がやってきたというので、讃を書いてもらいたいと依頼したものの、通信使は書くべき言葉が思い浮かばなかったものと思われます。そもそも朝鮮では、絵に讃を書いて楽しむという文化的風習はほとんどありません。加えて、朝鮮王朝の知識人の教養はごく狭量で、とっさの依頼に即応えることができなかったということだと思います。しかし日本人は、偉い通信使が書いたものなので、線にも何か意味があるのだろうと考えていたのではないか。展示には讃の解説は何もありません。 朝鮮王朝の知識人(貴族・両班)たちは、科挙の主要科目である漢詩の能力は有していたようですが、科挙の対象外の世界に対してはほとんど関心を持っていかったはず。四書五経も実際にはごく一部しか使われていなかったのではないか。儒教国とはいえ、朝鮮では論語そのものが広く読まれ、その教えが社会の隅々まで浸透しているという状況からはほど遠いからです。むしろ非論語的価値観が、朝鮮社会を支配してきたといっても過言ではないのではないか。 日本は、少なくとも紀元前後の頃から直接中国と行き来し、その先進文化を摂取してきました。中国正史の「旧唐書」には、日本の遣唐使は、下賜品のことごとくで書物を買って、帰国の途についたとのことが記されています。日本人にとっては、金銀宝物よりも書物が宝であったということです。江戸時代の中期、八代将軍吉宗は、西洋の科学技術を積極的に移入し、殖産興業に尽力したことでも知られていますが、実は中国明の法律「明律」を自ら学び、我が国初の体系的な法典「公事方御定書」(くじかたおさだめがき)を編纂したという。(暴れん坊将軍の作った法律はこんなに画期的だった!)この法典の画期性は、それまでの法律にはなかった更生の概念を導入したことだという。近代法に近い思想を感じますが、明の法律に基づいたものだというのは驚きです。 こういう歴史の個々具体相を見ていくと、朝鮮通信使の出る幕は皆無だといっても過言ではありません。韓国人を相手にしていると、日本の歴史にとって本当に重要な事柄は等閑に付され、通信使にまつわる些末な事柄がさも重大事項のごとく針小棒大に扱われ、日本の歴史が狂わせられています。朝鮮人、韓国人は中華文明圏の小中華をなしていたと自称していますが、朝鮮では、中国の書物はごくごく一部しか学ばれてこなかったということ、朝鮮人の教養の質は非常に浅く、狭く、日本人が師とするに値するような文化は皆無に近いということを日本人は認識すべきです。 中国正史の「随書」には、日本では中国から文字が伝来する前には、板に刻み、縄を結んで印しとしたと記されています。水引やしめ縄など、日本では「結び」に様々な意味が込められていますが、そのルーツは縄文時代にまで遡ります。実は築地書館から『日本の結び』という本が2012年に出版されていますが、全く話題になっていません。同社の創業60周年記念事業として出版されたものですが、その内容からするならば、各紙で紹介され、話題になるべき本だと思われますが、ほぼ完全無視。知る人ぞ知るという感じです。わたしは偶々取次でパンフレットを見て知ったのですが、なぜ話題にならないのか。その理由は、平安時代に出版された現存する我が国最古の医学書「医心方」(984年刊)の現代語訳本(2012年刊)と同じ理由です。韓国の捏造歴史を邪魔しないためです。 「結び」に関しても韓国が伝えたという話が流布していますが、韓国人はこの「日本の結び」をひそかに研究し、韓国発祥であるかのような工作を進めてきたはずです。この本の出版が広く知れ渡ると、韓国の工作効果も半減します。韓国人は日本人の仕事を利用して、捏造歴史のタネを次々と見つけてきます。「結び」でいえば、沖縄にも縄を結んで文字の代わりしていた時代があったという。意外なところでは南米にも存在したという。 韓国人を相手にせず、日本人は事実に基づいて日本の歴史を学ぶべきです。「旧唐書」には白村江の戦いの様子が生々しく書かれていますが、日本軍は河口で唐軍の急襲に遭い、400艘もの船が焼き尽くされ、「煙は天にとどき、海水は血で赤く染まり、賊衆は激滅した」と書かれています。しかし韓国人は、この白村江の戦いに敗北した後、2万人もの百済人が日本に亡命したと主張していますが、400艘もの船が焼かれ、血の海と化した中で、どうやって2万人もの百済人が日本に渡ったというのでしょうか。事実に基づかず、思いつきで何でも言い募る韓国人にしか通用しない非科学的思考の典型。 白村江の戦いに敗れた(663年)後、唐の攻撃を恐れ、朝廷は664年には筑紫に水城を築き、665年には、百済人に長門と大野城と基肄城の築城を命じます。667年には、高安城、屋島城、金田城を築きますが、百済人の名前がしるされているのは、長門、大野、基肄の3城の3人みです。韓国には関連資料は皆無です。にもかかわらず、九大の歴史系紀要には、韓国人研究者が、金田城は百済の流人が築いたと書いています。九大には根拠なき記述だと指摘する指導者はいないらしい。 白村江の戦い後の築城記述を拡大解釈して、日本の古代山城は百済人が作ったとの説までが横行していますが、この戦いより100年余り前の欽明天皇の時代、548年には、朝廷は百済に370人を送り、築城を助けています。日本が先に百済で築城を支援しているという事実は、全く無視されています。そもそも白村江の戦い直前に、百済王は日本の役人の反対を押し切って、敵地に隣接した場所に遷都しています。現在の都は土地がやせて、収穫が望めないので、もっと肥沃な場所に移りたいというのがその理由ですが、確かに土地はやせているが、峻険な山々、深い谷といった自然の要害に護られており、国防上は最高の場所、「飢えは第二、国の存亡は第一」といって日本の役人は反対しましたが、日本の反対を無視して、百済王はわざわざ自ら敵陣地のすぐそばに遷都しました。遷都後、即座に新羅の襲撃に遭い、元の都に逃げ帰ります。飢えへの切実さが上回った結果だとは思われるものの、兵法の基本すらわきまえない百済人。しかも兵法だけではなく、統治能力そのものにも問題があるのでは。遷都せずとも領内の肥沃な土地からの収量増を促進させることは可能であったはずなのに、都を置いた直轄地統治以外の能力はなかったのではないか。いずれにせよ、百済は豊かであったというイメージからはほど遠いのは事実。 しかもこの百済王は、白村江の戦いの渦中でも、日本軍や自軍兵士を放置したまま、自分だけ高句麗に逃げ込んだことが「日本書紀」に記されています。兵法の基本すらわきまえない上に、卑怯きわまりないではありませんか。一方、日本軍は壊滅的敗北を喫しながらも、残った船をつかって、百済王に棄てられた百済人数百人を救出して日本に連れ帰り、彼らに田を給付したとも記しています。日本の天皇(天智天皇)と百済の王との、統治者としての質の余りの違いに愕然とさせられます。日本から朝鮮半島に移民として渡ったという例は、古代から現代まで皆無ですが、朝鮮半島から日本には頻々と移民がやってくるのも、無理もないといわざるをえません。 新羅統一後は、新羅からしばしば難民が日本に漂着していますが、難民世にせよ移民にせよ、貧しい国から豊かな国に人が流入してくる現象です。何時の時代でも、どこであれ、この逆はありえません。日朝間においても古代から現代まで、韓国人は海を渡って日本を目指してきまた。韓国人は自国に資料がないので「日本書紀」のごく一部を取り出して勝手に解釈して妄説を流布しているわけですが、彼らに都合の悪いところは完全に無視です。これほど非学問的態度は世界的にみても、韓国人以外にはありえません。 中国正史には、古代の中国周辺国の様子が客観的に書かれているはずですが、韓国では、歴史専門家ですら読んだことのある人は皆無なのではないか。おそらく朝鮮王朝時代でも同様だったのではないか。現代の日本の歴史学会でも韓国流に染まり、基礎文献の徹底的な読み込みはほぼなされずに、韓国人の思いつきを無批判に受け入れることが、学問の国際化だとの風潮に汚染されています。 現在、中国正史24史は刊本化され、入手は容易ですが、韓国の歴史研究の子供じみた幼稚さ、底の浅さなどからすると、韓国ではこの刊本化された24史すら、どこの大学もどこの図書館も購入していないのではないかと想像されます。こんな韓国との共同研究などレベルが低下するだけです。もうすでに低下し始めていますが、日本の大学で韓国人教授のいない大学は皆無のはず。これは、恐ろしい事態であると全国民は認識すべきです。日韓の学者が共同でなしうる価値ある研究は、朝鮮王朝時代と日本の統治時代との違いを事実に基づいて徹底的に研究することと、慰安婦問題の事実に基づく検証です。 中国では、自国の歴史に対する誇りは並外れています。中国共産党は政権奪取後4年目にして、すでに正史24史(積み上げると1.5メートル)の編纂事業を開始しています。4年といえば、国内の完全統一にはほど遠い時期だったはずですが、国中から専門家を集めて編纂事業を開始したという。朝鮮戦争、文化大革命などの大激変時下でも、編纂事業は別格で、粛々と進められてきたという。中国では、しばしば異民族によって王朝が立てられてきましたが、正史が焼き尽くされるという蛮行は起こらず、むしろ大事に継承されてきました。異民族との攻防激しい中国ですが、不思議なことに、中国王朝としてのある種の一貫性は保たれてきました。民族的にも、血統的にもばらばらでありながら、おそらくどの王朝といえども、24史に象徴される中国の歴史の重みに対しては、敬意をもって服してきたのではないか。それが、ある種の統一感の源泉になっているのではないか。素人的発想ですが、歴史の重みがいかほどに国の統治にとって重要であるのかを、語っているように思います。 一方、日本では平和な時代の渦中にあって、政府自ら(文科省主導)、国立大学から日本史(付随して、東洋史・中国史、西洋史など歴史専門学科)を追放しました。何という違いでしょうか。その結果、日本では歴史、文学が韓国人によって蹂躙され尽くされています。 福岡市博物館が「元寇防塁マップ」を作成し、市内各所で無料配布していますが、この元寇解説からも、高麗軍は完全に消され、モンゴル軍だけが攻め込んできたと書かれています。完全に史実に反する内容ですが、「日本の文化は韓国が作った」という妄説の邪魔になるような歴史的事実は、あらゆる場所、あらゆる場面から排除される動きが、少なくとも国公いずれにおいてもほぼ貫徹されています。しかも驚いたことには、この「元寇防塁マップ」は文化庁の支援事業として実施されたものです。つまり、文化庁の資金で作成されたものです。 実は、縄文文化も邪魔物として隠蔽の対象になっています。新年早々、その極度の隠蔽ぶりに遭遇しました。茨城県つくば市の上境旭台貝塚(縄文時代後・晩期、約4000〜3000年前)で、漆塗りの大型容器の一部が出土したというビッグニュースが1月4日の読売新聞夕刊で報じられました。WEB版でも報道されていましたので、「しま模様浮かぶ「重文級」縄文漆器…精巧な彫刻」(要会員登録ページに変わっています。1/18)をご覧いただきたいですが、写真からも漆の光沢が鮮やかに伝わってきます。しかしわたしは、この報道を見るまでは、漆の痕跡の残る縄文土器を見たことはあるものの、縄文時代に漆器が作られていたとは全く知りませんでした。そこでネットで検索したところ、多数、みつかりました。縄文時代の漆器がずらりと並んでいます。現代にも受け継がれている籃胎漆器(らんたいしっき・竹で編んだ籠に漆を塗り重ねた容器))が、縄文時代にその源流があったとは、ただただ驚きです。縄文時代は、文字こそなかったものの、非常に高度で豊かな文化が育まれていたことを改めて認識させられる大発見です。 しかし不可解なことには、このビッグニュースは、読売新聞以外にはどこも報道していません。ネットで検索しても読売の「しま模様浮かぶ「重文級」縄文漆器…精巧な彫刻」以外、かけらすら出てきません。日本の公共放送であるはずのNHKも当然、放送していません。縄文隠しが異様な規模で広がっています。不気味としか言いようがありませんが、縄文時代となると、どう捏造しても韓国が日本を作ったという妄説は、妄説としても成立しようもないからです。この大時流に乗って、次回からは読売までもが縄文隠しに加わる可能性もゼロではありませんが、想像するだに恐ろしい。この異様な事態を阻止するためには、「日本の文化は韓国が作った」という妄説を徹底して粉砕することです。それ以外にこの異様な事態に対抗する方法はありません。 なお、上記の中国正史に関する記述は、弊社刊のいき一郎著『中国正史の古代日本記録』(1,320円+税)を参照しました。 最後に、前号に急遽書き加えたモンゴル力士問題について一言。日馬富士問題に端を発しているとはいえ、この問題の核心は土俵の上でなされる白鵬の暴力相撲をなぜ容認いてきたのかという点にあったはずです。下の写真(うまく表示されませんでしたので、写真は削除)には、白鵬によって血まみれにされた嘉風と返り血を浴びた白鵬自身が写っていますが、この取り組みだけでも、白鵬は出場停止どころか、日本の相撲界から永久追放処分にすべきだったのではないか。顔面骨折をした豪栄道の写真は見つかりませんでしたが、当然もっと凄まじいものだったのでしょう。これほど、卑怯、卑劣な相撲を取る力士は、白鵬以外にはいません。にもかからず、白鵬の暴力相撲はなぜ認められているのか。 池坊保子評議員会議長も無知と無恥をさらけ出して白鵬を擁護していますが、土俵の外の暴力は禁止しても土俵上の暴力を容認したのでは、全く意味がありません。この浅ましい、卑劣きわまりない白鵬の暴力相撲が、日本相撲協会ぐるみで容認されているのは、非常に強力な白鵬擁護者がいるからなのではないか。森喜朗オリンピック組織委員会委員長は、強力な白鵬援護者です。その威力は池坊保子氏の比ではないはずです。こんな浅ましい、卑劣な暴力相撲を取る白鵬を擁護する森氏は、オリンピック組織委員会委員長の資格はないといわざるをえません。森氏が、白鵬の汚い手口を擁護することは、オリンピックでも白鵬を見習って、手段を選ばず、勝ちを取りに行け!と暗黙のうちに選手たちにアピールしているのも同然の行為です。森氏はいい年をして、恥を知れ!といいたい。 ただ、日本相撲協会に対して、唯一異議申し立てをしている貴乃花親方は、何やら怪し
げな、右翼的エセ宗教に洗脳されているらしいことも報じられています。親方が、もしも国粋主義によってモンゴル力士に対抗しようとしているのであれば、考え違いも甚だしいといわざるをえません。土俵以外に、モンゴル力士に対抗する場所も、手段もないことは明白すぎる事実ではありませんか。弟子にまで国粋主義を鼓吹するのはもってのほか。今後も親方が右翼エセ宗教の旗振り役を務めたいのであれば、部屋を閉じて、相撲界から足を洗うべきです。 相撲ファンは、土俵の上で国粋主義の託宣など聞こうとは誰ひとり考えてはいません。神事としての相撲も、心技体そろった最強の力士であることによって、神の前に選ばれているのであって、ご託を並べる能力によって選ばれているわけではありません。しかも親方の不可解さは、マスコミの前で一切発言しないことです。マスコミとはすなわち、相撲ファンを含む一般市民に対してすら自分の見解を表明しないということです。日本相撲協会では、全てが握りつぶされる可能性のあることは、十分にありうることなので納得はできますが、外に向かってまで一言も発言しないのは、余りにも無責任です。本題からはずれますが、あの長いマフラーのキザっぽさにも耐えがたいものがありました。 貴乃花親方には、怪しげなエセ宗教家とは手を切り、もう少しまともな市民感覚を取り 戻して、白鵬の暴力相撲に対して、他の親方などにも働きかけながら対抗していただきたい。森喜朗氏は、目下、ガン闘病中だとのことですが、白鵬を強力に擁護してきたことの過ちを認め、相撲ファンに深くお詫びする談話を発表していただきたい。このけじめをつけずにオリンピック組織委員会委員長を続けることは許されません。オリンピック精神とは真逆の相撲を取る白鵬を援護し続けるのであれば、森氏は委員長を辞めるべきではありませんか。池坊保子氏も評議委員の資格すらありません。池坊氏も即刻辞めるべきです。 なお、日本相撲協会の納税額はたった15万円、しかも国の補助金まで受けているという。信じられません。相撲は、なぜこれほど優遇されているのでしょうか。 |
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